中村天風財団(天風会)

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中村天風とその足跡

中村天風

中村天風(なかむらてんぷう)

明治9(1876)年生まれ。
日露戦争の軍事探偵として満蒙で活躍。帰国後、当時不治の病であった肺結核を発病し、心身ともに弱くなったことから人生を深く考え、人生の真理を求めて欧米を遍歴する。
一流の哲学者、宗教家を訪ねるが望む答えを得られず、失意のなか帰国を決意。その帰路、奇遇にもヨガの聖者と出会いヒマラヤの麓で指導を受け、「自分は大宇宙の力と結びついている強い存在だ」という真理を悟ることで、病を克服し運命を切り拓く。帰国後は実業界で活躍するが、大正8年、病や煩悶や貧乏などに悩まされている人々を救おうと、自らの体験から“人間の命”の本来の在り方を研究、「心身統一法」を創見し講演活動を始める。
この教えに感銘を受けた政財界など各界の有力者の支持を受け「天風会」を設立。その後50年にわたり教えを説く。
東郷平八郎、原敬、北村西望、松下幸之助、宇野千代、双葉山、稲盛和夫、広岡達朗など、その影響を受けた人々は多様で、自らの人生、事業経営に天風哲学を活かしている。
昭和43(1968)年、92歳で生涯を閉じる。

中村天風の足跡

1876(明治9年)
7月30日、東京府豊島郡王子村(現東京都北区王子)に生まれる。
本名・三郎
1892(明治25年)
修猷館中学を退学。頭山満翁の玄洋社に預けられる。
陸軍中佐 河野金吉の鞄持ちとして、
日清戦争開戦前の満州および遼東半島方面の偵察・調査に従う。
1903(明治36年)
訓練を受けたのち、日露戦争の軍事探偵としてハルピン方面に潜入、諜報活動を開始する。
1904(明治37年)
ロシアのコサック兵に捕えられ、死刑の宣告を受けるが九死に一生を得る。
1906(明治39年)
陸軍から任命され、朝鮮総督府の高等通訳官の任務に付く。
任務について3ヶ月目に吐血。当時の死病であった奔馬性肺結核と診断される。
1909(明治42年)
オリソン・スウェット・マーデン博士の教えを請うために、病の身を押してアメリカに密航。
コロンビア大学で聴講生となり、免疫系と自律神経系統について学ぶ。
更に哲学者、有名識者を尋ねてヨーロッパへ渡り、ロンドンで、H・アデントン・ブリュース博士の講習会に参加。
フランスで、大女優サラ・ベルナール邸に寄宿し、ヨーロッパのさまざまな思想、文化にふれる。
リヨン大学のリンドラー博士に鏡を用いる自己暗示法を教わる。
ドイツで、哲学者ハンス・ドリュース博士の説く生気論を学ぶ。
1911(明治44年)
近代医学をもってしても救われない失意のまま、マルセイユ港から帰国の途につく。
途中エジプトのカイロでヨガの指導者カリアッパ師と邂逅。師に導かれてヒマラヤ第三の高峰カンチェンジュンガの麓、ゴルケ村に入り、ヨガ哲学の行の指導を受ける。
1913(大正2年) 
2年数ヵ月の修行で結核は治り、悟りを得て、カリアッパ師より帰国の許しを得る。
帰国途上、上海にて第2辛亥革命に参加。
帰国後、実業界で活躍し、いくつかの会社の経営に携わる。
1919(大正8年)
6月8日、実業界から身を引き、単身「統一哲医学会」を創設し、上野公園精養軒前で辻説法に立つ。
同年9月、天皇の諮問奉答者であった向井厳に見いだされ、日本工業倶楽部での講演に招聘される。
向井の紹介で原敬をはじめとする政財界の人々が熱心に天風の公演を聞く。
1940(昭和15年)
統一哲医学会を天風会と改称。
1945(昭和20年)
強制疎開を命じられ、自宅兼天風会本部であった本郷丸山福山町の屋敷が取り壊され、茨城県利根町布川に疎開する。
1946(昭和21年)
10月、虎の門ビルにて戦後初めての講習会が開かれる。
1947(昭和22年)
「真人生の探究」を発行。
1948(昭和23年)
「研心抄」を発行。
文京区音羽にある護国寺の月光殿で、講習会や修練会などが定期的に行われるようになる。
1949(昭和24年)
「練身抄」を発行。
1962(昭和37年)
公益性を認められ、財団法人天風会となる。
1968(昭和43年)
4月、護国寺内に天風会館落成。
12月1日
死去。享年92歳
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