歴史
心身統一法のはじまり
大正8年6月8日は、中村天風が上野公園の路傍に立ち、人々に呼びかけて心身統一法の広布を開始した日である。
天風は毎日腰に握り飯を下げ、芝公園や上野公園の精養軒前で、大道演説により道行く人々に教えを説いた。
上野公園内には、天風が立って演説をしたと言われる石台が残っている。精養軒を左後方にして立つと、左右、前方と広い通りが続く三叉路で、現在でも往来は多く、当時ここで演説をすればかなりの人が集まったと思われる。また救世済民のため「国民心身改良実行統一協会」の看板を掲げ、当時の東京麹町区内幸町の経国銀行内に最初の事務所を構えた。ここに天風会の元となる組織が誕生したわけである。そして原敬首相を始め、政界、財界の有力者に教義の真価を認められ、芝公園内に本格的に本部を設置する。翌年、豊橋支部、次いで浜松支部が開設され、大正12年には、本部を港区麻布宮村町に移転した。
全国各地への組織の広がり
この年、朝鮮総督の斎藤実にまねかれて京城(現在のソウル)で講演したのを機に、韓国京城支部も誕生した。また同年(翌年の大正13年という説もある)大阪の中之島公会堂で講演会が開催され、これを機に大阪関西本部が開設されている。そして大正15年、本部を本郷区丸山福山町(現在の文京区西片町)に移転する。短い間に本部が何度も移転したのは、それだけ「心身統一法」が急速に普及されてきたことを物語っている。ここが昭和43年に天風会館が建設されるまでの年月、本部としてさまざまな講習会や修練会の根拠地となってきたのだが、その間太平洋戦争を挟み、さまざまな変貌があった。
丸山福山町の邸宅は旧相馬子爵邸で、敷地は千坪、建物は300坪の広大なものであった。母屋を始め3棟の建物があり、そのうちの1棟は昭和2年に本部道場「更生寮」として建てられたもので、建設祝賀会には頭山満翁も参列されている。更生寮は階下が道場で2階には地方からの参加者のための宿泊施設もあった。若き日の安武貞雄二代会長が九州から出てきて更生寮の2階で過ごしたことは、「志るべ」で安武が語っている。
戦時中の活動
当時の講習会や夏期心身鍛錬会は、この道場と中庭で行われた。引き続き、昭和4年に京都支部発足、昭和12年名古屋支部発足、昭和14年神戸支部発足、と順調に組織は拡大していく。昭和15年1月、それまでの統一哲医学会という名称を天風会と改称し、いよいよ天風会としての活動が盛んになっていく。翌年には北海道小樽支部も発足し、天風の講演行脚は全国にまたがるようになった。
昭和17年に太平洋戦争勃発。昭和二十年に特別強制疎開命令により、本部建物が取り壊された。当時天風の講演は、「戦争をやって勝て、勝て」というような話よりも、平和という言葉がたくさん出てくるので平和主義者だといわれ、当時天風会理事長であった平林正治氏が警視庁に呼ばれて事情を聞かれたことがあった。そのために強制疎開の措置をとられたのではないかとも言われたが、上野に向けて地下壕を作るための道筋になったという事情もあったようである。天風は茨城県布川に疎開したが、事務所は目黒区に置き、官民各種団体の要望もあり、講習会は終戦まで継続して実施された。
戦後の復興と天風会
戦後も昭和21年10月に最初の講習会を開き、以後荒廃した都内をさまざまな会場を移りながら毎月講習会は開催された。昭和22年4月には、天風による初めての著書『真人生の探究』が国民普及協会から出版された。よく23年には『研心抄』、24年3月より機関誌「志るべ」を毎月発刊、24年には天風著『練身抄』と次々に教えが活字化されるようになった。全国にまたがっての会員の増加に、実際に天風が行う講習会の機会が多く持てないこともあり、時代の要求でもあった。
昭和23年、天風会事務所を以前と同じ場所、文京区西片町に新築された天風の自宅に置いたが、戦前のように講習会や行修会ができるほどの施設は整わなかった。そのため講習会場探しに毎月苦労しなければならなかったが、後の三代会長、野崎郁子の尽力で、護国寺月光殿での定期開催に漕ぎつけることが出来た。東京の古い会員は誰もがここで初めて聴いた天風の講演が峻烈に心に残っていると、昨日のことのように語る。
天風哲学のこれから
昭和37年、天風会はその公益性を認められて財団法人化された。財団法人とは、設立者が自分の財産を元に社会や公に対して公益事業を行っていくことを許可されて設立されるものであり、原資の財産が必要であった。天風は自身の私財を投じて財団を設立し、それに伴い「心身統一法」普及のための常設講演場所を求めて、縁のある護国寺の地所内に天風会館を建設することになる。護国寺山門横に元々あった音羽洋裁学院の建物を購入し、やがて全面的に建て替え工事が行われた。その際、天風は西片町の土地、建物をすべて財団に寄付し、足りない分は会員に寄付を仰いで工事を完成させたのである。そのとき天風は、何一つ自分のものとして残そうとはしなかったそうである。
天風はマンションの一室に居を移すことを決めていたが、野崎郁子は、当時天風の体調がすぐれなかったので、万一のときは西片町の屋敷から見送りたい気持であったと、「志るべ」で語っている。天風会館の完成を見たのは、昭和43年4月であり、天風はその年の夏期修練会を指導した後、昭和43年12月1日、帰霊した。天風は多くの人々が心密かに願っていたとおり、西片町の屋敷から見送られたのである。天風は、天風会館の完成を目前にした講演の中で、「天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。天風に二代目はいないのだから、これからは天風会館を自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ、教えの殿堂としていってほしい」と語っている。