新箴言註釈二 現代語表記版
人の一生は、何としても一生限りのものである。絶対に二生はない。生まれかわったようだということはあるが、それは、ただ観念的に想定した二生であって、現実の二生というものは決してないのが実際である。
そのうえ、この世に我々が活きている期間というものが、どんなに長生きしても、永遠の年月をもつ宇宙生命の長さに比較すれば、むしろ夢一瞬の短かいものである。
そこで、このように絶対的な事実がある以上は、いかなる場合にも、その生命の存在状態をできるかぎり価値高くさせるようにしなければならない。
もちろんこの位のことは、多少なりとも人生を真剣に考える人ならば、誰でも考えていることであろうが、しかし、実際は、案外、ほんとうに価値高い人生に活きている人というのは、余りにも数が少ない。
一体これはどういうわけかというと、要するに、人間の本質の尊さということを、真実自覚していないためだといってよいと思う。
多くいうまでもなく、人間には、人間がひとたび自分自身の本質の尊さというものを正しく自覚すると、「心」が自然と自分自身を気高い人生に活きるようにリードするという法則性がある。
だからそうなると、その人は必然的にどんなわずかな時間であろうと、いつも価値ある人生に活きられることになる。
そもそも人間の本質というものが、いかなる尊さをもっているかというと、端的にいえば、人間というものは、厳密に論ずれば、健康的にも、運命的にも、常に幸福に恵まれるように本来作られていると結論されるのである。
ところがこの尊く崇高な事実を、何とそれが非文化時代の人ならともかく、現代のこの文化・教養時代に活きる人の中にも、正しく自覚して日々の人生を活きている人が、残念ながら極めて少ないのである。
むしろ、人間というものは、いくら用心しても、努力しても、健康的にも運命的にも、しばしば思い通りにならないという、憐れで不幸なもののように、人間の価値判断を非常に低く考えて、それが少しも間違っていない、正しい判断のように軽率にも考えている人が、世間には相当多いのではないだろうか。
これは要するに、健康的にも、運命的にも恵まれた幸福な状態に活きている人よりも、不健康、不運命に活きている不幸福な人の方が、人間の仲間には余りにも多数を占めているという、いわゆる目に見て分かる「現実」というものを、その判定の基準にしているがために他ならないと考える。
そして、またこの悲しむべき「現実」が、どのような原因から招かれているのかということを明らかにしようとする心がけが、自分自身の心に欠如しているという、自己の人生に対する考え方の間違いには大部分の人が少しも気づいていない。
もっとも数多くの人の中には、人間の本質の尊さをおぼろ気ながらも知っている人もあるが、その人々の実行している手段というものが、残念ながらしばしば第二義的な事ばかりを重んじて、第一義的な事を疎かにしている傾向がある。
もっと詳しくいえば、運命に対しては、うんと金を儲けていわゆる「富」を作り、あるいは地位や名誉を得れば幸運を勝ちとれるものと考え、また健康に対しては、医薬品やあるいはそのほかの薬物療法や物理療法というような、いわゆる人為的治療法のみを重視して、それ以上に必要とされる自然治癒の方法を思いのほか軽視して、しかも健康を獲得するという目的を完全に達成することができるもののように思うのが第二義的手段というもので、もちろんこうした第二義的な手段や方法も、ある程度健康を獲得し、運命を建設する上に必要であるには相違ないが、しかし厳密に論ずれば、すべての事を完全にするには、まずその根本を確立する事こそ、何をおいても最初に取らねばならぬ手段であることは、敢えて多言を要さないことである。
すなわちその根本を確立するということが、第一義的な手段というもので、それでは、人間の本質の尊さを完全に発揮するには、どのような手段を実行することが理想的な第一義的なものかというと、つまり「万物の霊長たる人間の真の生活目標の決定」ということなのである。
実際! この重要な事柄を考慮の外においたのでは、人間の本質の尊さを完全に発揮することは、絶対に不可能なのである。
しかるに、大抵の人はこの犯すことのできない真理を自覚していないで、前述の第二義的手段だけを実行すれば、その目的を達成できるもののように考えている。
しかし、万一その考え方が間違っていないのならば、富める者や名誉や地位の高さを有する人は一様に幸運であり、また肉体ばかりを中心に考える神経過敏な健康主義者や、やたらと医薬品を濫用する薬の愛好者は、総じて健康のはずである。
ところが、事実はこれと反対である。
というのは、結論すれば、前述の人生を決定する根本の基礎である「生活目標」というものが、万物の霊長たる真人としての理想的なものでないからである。
そこで、それでは真人としての理想的な生活目標とは? というと、つまり「霊性の満足」ということなのである。すなわちこれがほんとうの、人間としての最も正しく最も尊い生活目標なのである。
ところが、人生というものに対して相当深い理解をもっているように見える人でも、この目標を重視せずに、おおむね多くは次に列記する四項目の何れかを、意識的かまたは無意識的にその生活の目標として、勉学に励んだりあるいはその仕事や労働に努力している。
その四項目とは、
1.本能の満足を目標とするもの
2.感覚の満足を目標とするもの
3.感情の満足を目標とするもの
4.理性の満足を目標とするもの
なのである。以上の四項目の満足を欲するという気持ちは、かつて講演の際にもいったとおり、一般的な人間に共通する人生への欲求なのである。
したがって、一概にそれを非であるとして排斥すべきではないが、さりとて、前述の何れかを生活の目標にすると、何れを目標としても、現実に人間の本質の尊さを完全に発揮することは、断然不可能になってしまうのである。
それはなぜかというと、以上の四項目の何れかを目標とすると、かりに相当の富や地位や名誉を勝ち得ても、それでもって自分の人生の満足を徹底的に自分のものとすることは、絶対にできないためなのである。
加えて、人間の欲望というものには、自制心の極めて優れた人でない限りは、ほとんど際限のないものになりがちで、西洋の哲学者の訓えにも、
Avarice increases with wealth.(註・富は欲望を増加させる)
というのがあり、古代中国の『後漢書』にも、「隴を得て蜀を望む(註・一つの望みを達すると更に大きい欲を抱くということ)」という有名なものがある。また日本にも「おもうこと一つかなえば又二つ、三つ四つ五つ六つかしの世や」という道歌(註・教訓的な短歌)があるのをみても、この事情が納得されることと思う。
その上に、人間の欲望の火は炎と燃えるのに比べて、現実に得られる満足感は、いつも余りにも少な過ぎるのが通常のありさまなのである。
するとその当然の結果として、欲求不満というどうしようもない煩悶が心に生まれてきて、結局は生命の生存を確保する中枢としての神経系統の生活機能を、著しく損なってしまうことになる。
そうするとまた、その反することのできない因果関係で、活きるのに必要な各種の生命力も激減されてしまう。
そして結局は、満足の得られない欲望と四つに取り組んだままで命短くこの世を終るか、さもなければ欲望の奴隷となって、人知れず悩みの多い、憐れはかない毎日を過ごすかの何れかに陥ることになる。
こうなったのでは、かりそめにも、万物の霊長たる生まれがいが、いささかもないということになる。
結局は、自分の無自覚のためとはいえ、好んで煩いを多くし、わざわざ悶えを味わうべくこの世に来たのと同じ結果になる。
mortal(註・死すべきもの)である人間は、決して二度とこの世に出現できるものでないことを考えると、いかなる場合にも、もっと価値高い人生に活きなければならない。
しかもそれを現実にしてくれるものは、ただ一つ、自己の生活目標を前述の通り「霊性満足」という、真人としての理想的なものにすること以外に絶対にない。
「霊性満足」という生活目標は、前述の四項目の生活目標のように、満足が得られないことから生ずる失望や煩悶というものが、全く皆無なのである。
というのは、この「霊性満足」の生活目標というものは、個人的な狭い範囲の欲求の満足を目標とするものでなく、分かりやすくいえば自己の存在が人の世のためになるということを目標とする生活であるからである。
しかしこういうと、また中には、自分というものを全て人の世のために犠牲にして、あたかも自己の存在を無視することのように早合点する人もあるかもしれないが、断じてそうではない。むしろ自己の存在を重視してより高い価値あるものにするのには、この生活目標が一番容易で、その上精神生命の負う消極的な負担が絶対にないという、極めて高潔なものなのである。
そしてこの生活目標を基準に生活するということくらい、容易な生活もまた決して他にないのである。それは、次に記述するような気分=心がけで、毎日を活きればよいからである。
すなわち、霊性満足の生活を現実にするには、日々の自己の言行を出来る限り人の世のためになる事のみを中心とし、重点とするという心がけを、自分の心とすることである。
もっと具体的にいえば、いつも真心と愛の心で一切に対処するようにするのである。
そうすれば、どんな場合にもほんとうの親切と思いやりという、人間の心の最高至純のものが図らずも発現して来て、それがそのまま霊性満足の生活となり、宇宙本来の目的に合致した生活となるのである。
この生活を哲学的にいうと、「創造の生活」ともいう。
そして、こうした生活は、人間の先天的大使命である=進化向上に順応するという、階級の高い理想の生活なのである。したがって、満たされないことから生ずる失望や落胆というものがなく、そのため煩悶苦悩という忌まわしい心理現象の発生することもまた絶対ない。
というのは、この生活目標は、何ものをも代償として求めていないからである。
言い換えればEmolument is no object with me(註・報酬は目的ではない)からである。
であるから、少しも生命に無駄な消耗も無益な疲労もない。否、あるものはただただ歓喜と感謝の連続のみである。
ところが、これ以外のことを生活の目標とすると、生命の受ける消耗と疲労の割合が非常に甚大になって、またそれを回復することもなかなか容易でない。
ただし、くれぐれも曲解してはいけないことは、霊性満足の生活を目標とする者は、本能や感覚や感情または理性等の一切を断然排斥すべきとか、または卑しむべきものだから捨ててしまって気に掛けるな、というのではないという事である。
元来、人間の生命の中に、本能や感覚や感情や理性が存在しているのは、生命確保のために必要であるからである。である以上、それを無くすということは全く道理に合わず、かつ不可能である。
しかし、だからといって、これに制限を設けずに執着すると、直接間接に生命に思わぬ損害を招く。ところがこの制限ということと、執着しないということが、普通の手段や方法では断然出来難い非常に困難なことなのである。
普通の手段や方法は、いつもいう通り、昔から現在まで、洋の東西を問わず「抑制」か「禁止」という相対的なものであるからである。
しかるに、この万人が共通して困難を感じている人生問題が、何と!! 前述のような霊性満足の生活を実行すると、極めて簡単に、大して努力することなしに、適切に統御されかつまた解決される。
言い換えれば、本能心や理性心より発動する価値のない欲求が自然に制約され、同時に煩悩や執着心も著しく軽減され、または無になるのである。
そして、当然の結果として、人間の生命の本質の尊さも完全に発揮され、健康美も運命美も図らずも現実化される。
であるから、価値ある人生に活きるには、いかなる場合にも「霊性の満足」を終始その生活の目標として人生に活きることを、真人としての本領発揮のためと同時に、広く人の世のために心よりお奨めする。
昭和三十八年一月「志るべ」六十二号所収「新箴言註釈二」現代語表記・編集部編