
箴言註釈十九 現代語表記版
人間が完全な人生に活きようと願うとき、その心の在り方を内省検討するということが、いかに精神生命の積極化ということに対して極めて肝要なことであるかということは、今さら事新しく論議する必要はないと思う。
であればこそ、私が人生教義として心身統一法を体系化するに際しても、心身統一の根本原理である精神生命の生存の要点を正確に合理化するために、精神生命に備わっている感応性能を強くする三条件の中の一つである積極観念養成という項目の第一に、この事項を挙げているのである。
従って、諸君ももちろん、これを怠らず実行されていると信ずる。
がしかし、ここで特に注意しなくてはならないことは、この大切な内省検討ということが、ややもすると我執で行われる傾向があることである。特にそれが、自己の健康上や運命上の問題の時において。
我執で行うというのは、言い換えると、自分の心の在り方を、終始自己を中心として、又は自分の利害関係を主眼として、感情的もしくは理性的に考察するという検討態度を言うのである。
しかもこの検討態度は、必然的にしばしば公正を欠く怖れがある。というのは、自己が中心なのだから、どうしても自分の都合のいいように、とかくその考察を進めて行く傾向があるからである。
多く言うまでもなく、内省検討ということは、あくまでもその考察態度は厳正でなければならない。いささかといえども、こじつけや屁理屈があっては、何の意味をもなさない。
ところが、特に精神の修練が未完成の人は、みすみす自分の心の在り方が消極的だと分かっていても、他人の事ではない自分の直接的な問題を、どうしても積極的には考えられないから止むを得ないというように、理由にならないことに理屈をつけて、言い換えると、全く誤った同情を自分の心の在り方にして、平然と気にしないでいる人がいる。これでは、内省検討とは断然言えないのである。
そもそも、内省検討ということの真の目的は、精神生命に備わっている感応性能を強固にするために、絶対に欠くことのできない方法なのであるから、事情の如何にかかわらず、ただ真正面から、自分の現在の精神が今直面している事実に対して、果たして積極か否かを、厳正に検討すればそれが合理的なのである。
それを事情や事柄の性質に捉われて、しかも自分を中心として考察を進めると、もうそれは既に検討という尊い態度ではなく、それがすなわち我執というので、自我に執着したことになる。
従って結果は当然独善に陥らざるを得なくなる。
要約すれば、内省検討を完全に行おうとするには、自分の心の在り方を、第三者の「心」の在り方を観察するのと同様の態度で、観察し分析することである。
しかもこの時、その観察分析を行う「心」は、もちろん感情や理性レベルの意識であっては断じていけないのである。すなわち純聖なる霊性心意識でなければならない。というのは、多く言うまでもなく、感情や理性心には、心の在り方を公平に分析観察することの出来ないものが多くあるからである。
すなわち、感情というものはとかく興奮性のもので、物事を判断する際にどうしても的を外しがちである。そして特にその感情が「聖」なるものでない場合、より一層この傾向が顕著である。
また理性心の行う観察分析もとかく正当性を失うというのは、ともすると理性が最上の心であると考えるために、判断の焦点が知らず知らずの間に狂いを生じ、偏った独断的なものに陥りがちになる。特に理性心というものは、知識に相対して常に向上していくものであるために、当然その判断も相対的になって、どうしても絶対的な判断が出来難い。この理由により、絶対的な判断をすることができるのは、霊性心意識のみということになるのである。
というと、あるいはそれをとても難しく考える人もあるかも知れないが、決して難しいものではない。
要するに霊性心意識に判断させるということは、本心良心で、現在精神の状態が積極か消極かを見極めればそれでよいのである。
もともと本心良心には不公平もなければ屁理屈もないから、鏡に物を映したのと同様、その心の在り方のままが感じ取られるから、即座に厳正公平な判断が下せる。
つまりこのようにして、常に自分の心に積極的態度を堅持する真人となることができる合理的な補助手段により、現実に効果を上げることができるようになるのである。
あえてこの点を記して、諸君のより一層の完全なる実践を強く勧める。
『天風哲人箴言註釈』昭和三十八年発行、「箴言十九」現代語表記・編集部編