中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

報償を目的としたり恩に着せる心もちで為される
言行は真の誠意でもなく又親切でもない

新箴言註釈七 現代語表記版

英国の格言の中に"Emolument is no object with me." (註・報酬は私の目的ではない)というのがある。が、この格言の意味もまた、前掲の箴言の意味と同様の考えを示しているということは、その字句で充分了解できると思う。

要は、人と人との世界に生きている我々人間は、どんな場合にも、お互いの間柄を、天風教義のデクラレーションにも宣言してある通り、日常如何なる場合にも、偏りのない美しい愛情と、真の誠実さをその心として、尊い思いやりで助け合うという、いわゆる文字通り親切本位の共存が、最高の理想であらねばならない。

しかも、それを真に現実化するには、要点を言えば、私心なき言動が何を措いても必要とされる先決要項である。

そしてこの先決要項である私心なき言動とは、報酬をあてにしたり、自分の言動を相手に恩着せがましく思わせようとするのでは、全くその意味がなくなってしまう。

禅の教えの中にも、「施して報いを求むること勿れ」というのがある。

また有名な人生修養の道を説いている中国古代の名著といわれる『菜根譚』の三十三節にも、
「放得功名富貴之心下 便可脱凡」
     (功名富貴の心を放ち得下して すなわち 凡を脱すべし)
というのがある。

この語は詳しくいえば、「人間がこの世に生きるのに肝心なことは、みだりに功名や、富貴の欲望に心をとらわれないことである。そうすれば、健康も、長寿も、さらに幸運をも、自然と求めなくても恵まれる真人となり得る」という、厳然たる宇宙真理を明言したものなのである。

『菜根譚』という訓話集は、今の中国が明といわれた時代に、明人の洪応明(註・字は自誠)という人が書いたものと伝えられているが、いずれにしても、遠い数百年前の時代において、既にこの犯すべからざる人生に係わる宇宙真理を、正確に霊感した哲人のいたことは、まことに尊いことであるといわねばならない。

そもそも宇宙真理というものは、断固として絶対の実在である。

多言するまでもなく、絶対のものは、如何に時勢が変遷し、どんなに世相が移り変わっても、決して変わらないものである。

だから、経済機構という厳しい枠の中に生きることを余儀なくされている現代のような物質偏重の時代であろうとも、人生の根本に係わる道理は、自我を本位としない生活こそ、真の人間に与えられたこの上なく純粋で合理的なものであるということに、何の変化も改まることもないのである。言い換えれば、人間は無私無我の生活を本位として生きてこそ、ほんとうの人間としての幸福、すなわち健康と長寿とよき運命に求めずして恵まれるというのが、この世がある限り、ほんのわずかな変更もされることのない、昔から不変の、人生に与えられている宇宙真理なのである。

多くいうまでもなく、事実は最後の証明者として、無言の雄弁を以ってこれを立証している。

現に功名富貴の欲求に汲々としている人々を見てみよである。彼等は常に、真の健康を満喫することもできず、心ならずも医者や薬から離れられなくなり、したがって長寿などということは願っても得られず、それに加えて、どんな場合にも幸運に安住することができないで、四六時中、その欲望に心は引きずり廻されているという憐れな状態で、この貴重な人生を価値なくしている。

そしてその結果、強さ、長さ、広さ、深さという、人生に必須の四大条件のことごとくが、徹底的に損なわれているのである。

それにもかかわらず、何と情けないかなと言いたいくらい、現代人の多くは、この文化の時代に生まれながら、この明らかな道理を自覚することができず、やれ生存競争に負けてなるものかとか、人生は富貴と名声にありとか、またやれ享楽こそ真の人生なり、などと極めて浅薄で独断的な弁解と口実とで、ひたすら自己本位に基づくただ自分だけの生活に努力することが、二度と繰り返すことのできないいのちに対する間違っていない生き方であるかのようにはき違えている。

しかも、こうした無自覚な人生生活を平気でしている人が多く、少しでもその数が減らない限りは、世相も、時勢も、断じて好転することはできない。したがって、心ある人々が熱烈に渇望している真の平和の世界などというものは、到底実現できない夢の世界のものでしかないことになってしまう。

ところが、当然こういう真理を知っているべきはずの政治家や、学者や、宗教家が、概してこうした事情に無自覚で、なおも自我本位の生活を平然として行っている人が多いというのが実状である。

だからしたがって普通の人においては、むしろ欲求に汲々と心を燃やし、それを獲得することに他を排しても努力することが、人生真の幸福と恵みを我がものにする当然の手段であるように思い込んでしまっているのも無理もないことだともいえるが、いずれにせよ、このような経緯を観てきて感じるのは、何ともいえない嘆かわしさに、かりにも人々を救い正しい世の中を作ろうと意図する我々は、ただただ形容のできない寂しいものさえ、心に感じるのである。

私がかつて大病に侵されて後、人生真理の探求に志して求道の放浪生活を送っていた際、最後に真理を自覚するに至ったインドにおいて、カルマ・ヨガの研鑽と修行に熱中していたとき、恩師の聖哲から、「これはシェイクスピアの言葉だが、たいへん味わうべきものがあるから、これをダーラナを行いながら正しくその真意を捉えるようにするがよい。そうすれば、必ずや現在の汝の病気の回復の遅い理由が、自然とはっきり判るから」といわれて、この項の最後に付記してある言葉を口にされた。

そこで師のいわれるままに、ダーラナを行うときに、この言葉を公案(註・悟りへの課題)として、その真意を感得することに一生懸命観念を集中しているうちに、次第次第に自分の病患の回復がはかばかしくないのは、余りにも自我に執着した妄念が、終始心の中で葛藤を起していたため、天から生まれながら与えられている自然良能力の発動を阻止妨害していたからであるということが段々と自覚されてきた。

そこで、それから後は、空に徹する心を堅持するようにひたむきに努力したところ、執着から離脱した無我の心が、宇宙エネルギーから甦えりの力(ヴリル)を多分に受け入れるようになって、薄紙どころか文字通り厚紙を剥がすように、生命全体に驚くべき活力が漲ってきたのである。

そして、そのすべての結果が、現在諸君が目の当たりに見ておられるような、我ながら不思議に思うほど、真の健康的生命を、単に肉体ばかりでなく、精神生命にも作り上げることができたのである。

したがって、こうした尊く貴重な事実を体験したということが、この箴言を作ったより一層強い理由となっているのである。

ですから、そのつもりで諸君も、この箴言の真意を心に刻んで、真人としての正しい生活に徹してほしいと、熱奨する次第である。

終りに、参考のため天風が真理を悟り、その本質を正しく心に思うことができたシェイクスピアの言葉と、自作の格言とを付記するので、どうか充分自らを省みて考え、その真の本質を把握されるよう念願する。

The quality of mercy is not strained. It droppth as the gentle rain from heaven.
                          (Shakespeare)

(註・慈悲とは強いられるものではない。慈雨が天から降りそそぐようなものである。シェイクスピア)

Real human lives not for oneself, but for all. (Dr. Tempu)
(註・真の人生生活は、自己のためでなく、人類すべてのためにある。天風)


昭和三十九年一月「志るべ」六十七号所収「新箴言註釈七」現代語表記・編集部編

信念の重要な事は大抵の人の知るところである
然しそれを現実に堅持して居る人は極めて尠ない

新箴言註釈六 現代語表記版

そもそも我々天風会員たるものは、いずれも皆、人生に対する信念の重要性をよく理解していると信じる。

それは、毎回講習会の折りに、精神生命の理想的積極化を完成させる直接的な重要事項である感応性能を正常化するための、必須条件のひとつである観念要素の更改を説く際、天風会員であれば当然信念で寝て、信念で起き、信念で一日中を生きるべきであると、必ず判で押したように、私が教示しているからである。

ところが、天風会員以外の人々を見ていると、案外、相当の知識階級者の中にも、この事を正しく理解している者が少なく、また理解している人でも、標題に示したように、これをその心に的確に堅持して、颯爽とその人生を堂々と生きている人が、実際に極めて少ないのが事実である。

だから、信念さえ確固としたものであれば、もっと成功し、もっと幸福になれるはずの人生を、惜しいことに、自分の影法師を捕えようとすると同様の無駄な努力と焦りという愚かさで、この貴重な人生を、ただ計画や議論ばかりに明け暮れて、心ならずも無為に生きている人が多いのである。

多くいうまでもなく、人生はオンリーワンページである。どんなに人間の知識が進歩しても、二生は絶対に無いのである。

そうである以上は、何としても生きている今を、決して不幸多いものにすべきではない。

この自明のことを現実にするのに何よりも必要な根本要素は、一切の自分の言葉や行動に対して、信念を確固として揺るがさないことである。

だから私が毎年修練会の真理瞑想行のとき、「信念なき人生は、さながら羅針盤を用意しないで長途の航海に出発した汽船と同様だ」と説示しているのも、このためである。

というのは、いつ何時、思いもよらぬ出来事が、運命の中に突発的に生ずるか分らないからである。そしてそういう場合にもしも信念が堅持されていないと、一度の失敗で打ち負かされると、憐れにもそのまま再び立上ることが容易にできない。

それに引きかえて、信念が確固として堅持されていると、どんな場合にも、文字通り禍を転じて福と為すことが現実にできる。そして、最終的には、健康も運命もその信念の力で理想的に善きものと成して、人生を極めて幸福に生きることができるようになる。

もちろん、人生を幸福にするには、富や経験も、知識や計画、その他にも必要なものが多々あるに相違ない。しかしその何れもが、信念がなければ理想どおりに完全に実を結ばないのである。

ところが、世の人々の多くは、幸福の獲得に金の力、知識の力、また経験の力や、計画の綿密さばかりに重点をおいて、信念を大して重大視しないのである。

要するに世の中の進歩に比例して、ほんとうの成功者も、また健全な生命の持ち主も、まさに数において少ないのは、結局その原因となる理由がこれらの点にあるといってよいと思う。

また、さらに人格の価値判断にも、信念の有無が必要不可欠の密接な関係で存在している。

現に数千年昔に於いて、すでにヘブライのソロモンが次のように言っている。
「人の真の価値は、黄金に非ず、又宝石でもない。さりとて、名声でも、権勢でもない。ただ信念の有無にあり」と。

厳かに考えて下さい。数千年昔といえば、文化の発達していない未開時代です。その時代に、人の世の真理を見極めた哲人の見識には、まさにこのような尊敬に値するものがあったのであります。

これだけを鑑みても、まことに真理は久遠の昔から未来永劫に亘り、明白に存在するものであると断言する。

いずれにせよ、このようなことを深く考えるに従い、ますます信念の人生に対する絶対的な重要性を、ほんの少しの間といえどもないがしろにするべきでないことを、我々真人生の探究とその実践に限りない情熱を持つものは、今更であろうと、改めてその心に銘記すべきであると声を大にして言いたい。

そして、ナポレオン・ボナパルトが十万の兵を率いてアルプスの険しい山々を越えたときの言葉として今でも人の口に登る「我が辞書に不可能という言葉なし」という名言を、常に我が心の座右銘とすべしと、大いに推奨する次第である。

昭和三十八年十一月「志るべ」六十六号所収「新箴言註釈六」現代語表記・編集部編

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