新箴言註釈十四 現代語表記版
人々の多くは、とかくこうした大切な事を案外軽視する傾向が事実としてある。
そして得意な気分を心が感じた際には、大抵の人がたちまち有頂天になって、その結果心の備えを緩めがちである。
そして心の備えを緩めると、それが原因になって運命や健康上に、往々軽視することの出来ない破綻を引き起こすことが、事実として非常に多い。
ところが、それを少しもそうであると自覚せず、むしろ当然のように思って、何等反省もしない人が少なくない。
それでは、その心の備えを緩めるというのは、そもそもどういうことかというと、要点を言えば、心の自律的統御を疎かにすることなのである。
これをもっとハッキリ理解するには、武道の方でいう「残心」ということを、正しく考察するのが最もよいと思う。
この残心という言葉は、要約すれば、闘い終わったあとの心構えということを意味するのである。言い換えると、武道に志す者の心の備え方に対する戒めなのである。
わかり易くいえば、闘う前の心構えと、闘っている最中の心構えと、闘い終わったときの心構えに、いささかの差もあってはならないという戒めなのである。
すなわち、闘い終わった際も闘っている最中と同様、かりにも安易に心を緩めるなということなのである。
特に勝利を得た時は、一層この心構えを厳重にすべし、と戒めている。
なぜかというと、誰でも勝利を得ると、勝った!! という得意感=安心感が即座に心に生ずるものである。すると同時に心の備えに、緩みが生じて、武道家の最も恐れる隙というものが続いて生じるからである。
この隙というのは、心理学的にいうと、放心から生ずる有意注意力の欠如という心理現象なので、この心理現象が精神生命の内に発生すると、心のもつ変化対応能力の自在性という大切なものが束縛される。
これもせんじ詰めれば、精神生命内に存在する一種の反作用なので、そうなると当然、心の働きが萎縮されて、更に心身相関の結果として、自然と肉体の活動も消極的に抑制されることとなる。
すなわち、武道の方でいう、「体くずれ」、又は「構えやぶれ」という状態になる。要するにこの状態を隙というのである。
だから残心というのは、事前事後いかなる場合にも隙を作らないよう心に備えを持てということなので、言い換えると、古い諺の訓える「終わりを慎むこと始めの如くあれ」というのと同様のことなのである。
そしてここで最も正しく理解しなければならない肝心な点は、この隙を作らぬ心=残心の心構えとはどんな心構えなのかということである。
この心構えの実態がハッキリわからないと、心の備えということが言葉や文字で一応わかったように感じても、真実なものを実感して心に把握することはできない。
では、残心という心構え=隙を作らぬ心構え、言い換えれば、「隙のない心」が、本当の心の備え方だというその状態とは、そもそもどのような状態かというと、すなわち終始一貫、同一不変の平静な心、古語にいう「一以貫之(一つの心でこれを貫け)」というのと同様の心構え、これを禅の方では大定心といい、また「独坐大雄峰(註・いつでもどこでも本来ありのままの自分でいられること)」とも称している。
これをわかり易くいえば、大定心というのは、どんなとき、どんなことにもいささかも動揺しない心、言い換えると、いかなる場合にも、怯えず、怖れず、急がず、焦らず、いつも淡々として極めて落ちついている心、
これをもっと適切な状態でいえば、何事も無いときの心と同様の心の状態、古い句で有名な「湯上りの気もちを欲しや常日頃」というのが、この心もちを最も巧みに表現している。
要するに、何事もないときの平静な心こそ、大定の心なりということである。
これで残心ということが充分理解されたと思うが、尚より一層理解を明瞭にするには、天風会刊行の『哲人哲語』という書籍の中の、「残心偈」及び「再叙残心偈」を読まれることを勧める。
しかしこの残心という心構えは、ただ単に武道に志す者のみに対する戒めではなく、すべての人間生活に共通して必要とする心の備え方なのである。
それは何もこの事情は格別人生の深いところに思い至らなくても、極めて日常的に存在する事実で、すぐわかると思う。すなわち近頃の事業界に起きる現象の一つとして、昨日までさながら日の登る勢いを見せていた企業が、突如として急転直下倒産することがかなり多いという事実を考えてみるとよい。
これ等の事を概して経済界のフラクチュエーション(註・景気変動)と結びつけて論じたり断定したりする人が、専門の経済評論家の中にさえ相当多いようであるが、その影響かもしれないが、近年しきりと経営方策や企業機構の改善改変というような景気予測を中心とする方法で、あるいはこれを防止し、あるいはこれに対処しようとする変則的な風潮が、何か目下の経済情勢に対応する最良の方法であるように考えられている傾向が顕著にある。
しかし事実は残念ながら、それが決して妥当な推定でも又方法でもないことを、次から次へと倒産企業の続出するという現実が事実として立証している。
それはあたかも、政治家がいくら政策を改善し、あるいは社会構造や公共事業を検討しても、一向に暮らしよい明朗な世の中が実現しないのと同様で、結局この世の中は各々異なる心をもつ人の世である以上、理論一辺倒では到底解決するものでないからである。
要約すれば、企業界に倒産が頻発するそのそもそもの主因は、詳細に観察するまでもなく、経営者及びその従業者の心に、肝心な備えというものが欠如しているからであるということを、往々にして発見するのである。
すなわち、一時的な好況に煽られてなされた高度成長に惑わされて熱を上げた得意感、すなわち反省のない調子に乗った有頂天になった精神状態が、すべての悪い結果を生み出す温床をなしているのである。
しかもこの実際傾向は、単に企業界方面のみでなく、人生に一番大切な健康ということに対しても又同様なので、よく世間に、たとえば非常に健康であった人が、突然取り返しのつかない大病にかかるという実例がしばしばある。
これも要するに、平素の健康に有頂天になって暴飲暴食、その他勝手放題の不摂生な何の反省もない、すなわち心の備えのない無準備、無自覚の生活で平気で生きていたからである。
要するに、この種の人の心をよく検討すると、平素の人生生活に生きる際、心の備えどころか、心の状態をその時その時によって、猫の目のように揺れ動かしている。極言すれば、心を天風教義で厳重に戒めている感情や感覚の奴隷にしている。そしてその結果、心は絶えず安定を欠いて動揺の状態にある。
これでは結局、生命の確保と営みの中枢に当たっている何よりも大切な神経系統のボルテージが低下するから、いくら生まれつき健康な人間でも、ある時期が来ると急激に健康状態に変調を来たすのは当然である。
この理由により、諸君がすでに知っているように、私は常に「完全なる人生」に生きるには、先ずその先決問題として、心の態度を積極的に堅持せよと力説し、積極精神作成の要点の中に、「有事無事若無心(註・有事も無事も無心の如く)」という、すなわち執着なき心を平常心として、人事世事一切の人生に対応処置すべしと説いているのである。
要するに、この平常心を以て人生に対処すれば、得意の時にも、またそうでないときでも、心に波立つような高低する変動が来ないから、わざわざ特に意識的に用意しないでも、極めて容易にそのままの心で、残心の要点と同様の、心の備えに緩みのない理想的な心の態度が現実化する。
すなわち、諸君の多くがご存知の私の愛誦詩句である「六然訓言」の中にある「得意淡然、失意泰然」という心の態度が、特別の努力を必要としないでも実行ができる。
これは要するに、波風の起こらない平常心には、当然、その相対的比例として、心の態度に何ら著しい落差が生じないからである。
英語の名言集の中に
You had better pretend to be very happy when you are blue.
(註・不幸な時こそ幸せそうに振るまえ)
というのがあるが、これも、特に失意の時、心に落差を作らない、言い換えれば心をつとめて波風を立たないようにして、それを平常心とせよという言外の意味のある言葉と考えてよいと思う。
ただ問題なのは、我々天風会員のように、思うようにならないときにも、思いのままになるときと同様の心に簡単に心を振り替える観念要素の更改法も、積極観念の養成法も、更に神経反射の調節法も、普通の人は熟知していないから、言葉やその言い廻しには相当の感動を感じるかも知れないが、なかなか心の状態を変えられないという悩みを感じているであろうと推測する。
しかしこうした実際問題を考慮すると、お互い天風会員は心の操縦法を会得しているので本当に幸福だと思わざるを得ない。
そうであれば、心をより更に、より新たにして、現実にこの箴言を実践することにしよう。
○悪い習慣をつけぬようにすることは、悪習慣を破るより易しい。
参考
私の揮毫する六然誦句について
自処超然 処人靄然
無事澄然 有事嶄然
得意淡然 失意泰然
という六然誦句を好んで揮毫することは、修練会を行修した諸君ならよく存じていることと思うが、この誦句は誰あろう、かつて日露戦争の際、有名な日本海の海戦の折、大胆にも海戦に最も危険率が高いといわれる敵艦との対角戦闘法を強行して、なおかつ完全なる大勝利をあげ、がぜん東洋のネルソンという名声を一挙に克ち得た名提督、東郷元帥の愛誦句なのである。
詳しくいうと、頃は大正の十年の初夏であった。ある日私が頭山恩師と当時第一高等学校の名学生監であった谷山初七郎氏の来訪に際し、請われるままに揮毫をしておった時、前述の東郷元帥が、私の大先輩である杉浦重剛翁と共々に来宅されて、その時私がかつて中国革命の大志士で誰もがよく知る孫逸仙(孫文)大人から示教された次の様な六然訓句
超然任天 悠然楽道
靉然接人 毅然持節
厳然自粛 泰然処難
というのを揮毫しておったのを見て、自分も別の六然誦句を知っており愛誦しているといわれて示されたのが、最初に記した詩句なのである。
今ここに、たまたま六然誦句を引用した記述をして無量の感慨に浸り、当時を回顧してこの記事を加筆した次第である。
昭和四十年五月「志るべ」七十四号所収「新箴言註釈十四」現代語表記・編集部編
