中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

真の幸福というものは 衷心から現在感謝を

実行する謙虚な心から期せずして招来される

新箴言註釈二十五 現代語表記版

この問題は、修練会に参加した人なら、どんな人でも異議なく肯定できる事実である。

多くいうまでもなく、修練会で修得された安定打坐密法を実行すれば、極めて容易にこの状態をその心に感じ取ることができるからである。

ということは、すでに修練会経験者諸君がよく知っているとおり、修練会の重要な行修課程となっている真理瞑想行を行う際、その基本要項として必ず実習する安定打坐密法は、これを真剣に実践すると、自然に心の意識領域が完全に払拭浄化されることにより、宇宙創造の根本主体に実在する、無限で、変わることのない、そして建設的な創造の力(ブリル)という尊く崇高なものと、心の意識領域が密接に結びつき、その当然の結果として、いわゆる一切智、つまり全てを悟る完全なる知恵という絶対的なものと完全にひとつとなるため、あらゆる真理を極めてスムースに感得できる。すなわち、自然的で本来的な作用(ナチュラル・アクティブ・キャパシティ)が人間の、特に心の意識領域に与えられているからである。

そして、幸福というものは、多くの人々の考えるような、客観的なものでなく、要はどんな点に観点を置いて考えても、絶対に主観断定のものであるということが、理論的な判断でなく、いわゆる霊感的なインスピレーションで即座に断定できる。

これを精神科学的に説明すると、意識の中の最高の霊性意識が現れてくるためである。

そして、同時に、生命の生存に対する現在の状況がどうであるかに係わらず、生きているということに満足して感謝することを心に感じさせることが、幸福を招く何よりの先決問題であるということが分ってくる。

もっと分り易くいえば、健康に支障があろうとも、また運命にままならないものがあろうとも、否、もっと極言すれば、どんな場合に対しても、そういう時に、それでもなお生きていられるという偉大な事実を感謝する心を持つことである、ということが自然と悟れるのである。そしてこうした心こそ、いわゆる謙虚な心という、言い換えると、何のわだかまりもない純一無雑の、人間だけがもっている最高の気高い心なのである。

ところが、大抵の人は、平素講習会の時にもしばしば言うとおり、いろいろと難しい理屈や議論を口にしたり書いたり、話題にする割には、こうした絶対真理を少しも正しく自覚していない。

率直にいうと、かくいう筆者も壮年の頃までまったくこのような尊い自覚を心にもっていなかった。相当の理知教養をもっていながら、そして無自覚のためとはいえ、幸福をひたすら相対的なことばかりに求めて、ただあくせくと一向に満足を心に感じさせることなく、絶えず不平と不満の奴隷となっていた。

しかも、それが大変な誤りであることも知ることができなかったため、ただ心の中は求めることばかりやたらに多く、しかも得るものが余りにも少ないので、実にどうしようもない焦燥と煩悶に、形容のできない懊悩の毎日を過ごしたものである。

だから、ちっとやそっと恵まれたぐらいでは、嬉しいと思ったこともないという、実に今から思うと憐れな卑しさが心の全部であったといえる。

仏教の説教の歌に、

「おもう事一つかなえば またふたつ 三ツ四ツ五ツ六つかしの世や」というのがあるが、全くその歌のとおりであった。

それがいったん、ヨガのダーラナ密法(註・ヨガ修行の第六段階、凝念の修行)とダーヤナ密法(註・ヨガ修行の第七段階、静慮の修行)を会得して、言い換えると、諸君に指導している安定打坐密法と真理瞑想行を実践の結果、前記した真理を悟ることができて、更に十数年の苦心の末に、現在諸君に教示している各種の精神統御の方法を創見して、それを実行することに懸命に心を注いだところ、文字どおり天空海濶光風霽月(註・心がさっぱりと澄み切ってわだかまりがなく、さわやかなこと)さながらの積極的な心を作り上げることができて、長年自分の心を苦しませた不平不満や、その他一切のいまわしい消極心は、あっという間に雲や霧が消え去ったようにあとかたもなくなり、それにかわって何事に対しても、まずその事を積極的に善意に解釈して、(講習会で常に力説するとおり)感謝一念で生きるようになり得てから、あえて努力しないでも、招くわけでもなく幸福が続いてくる有難い運命の毎日を満喫するようになれて、あれほどの難病さえもまるで薄紙どころか厚紙を剥がすようにたちどころに治り、その上まったく予期しなかった長寿を、自分でも不思議に思う程、颯爽、溌剌として持続して、今なお多くの人々に、人生幸福を現実にお分けする尊い仕事にいそしんでいられるという有難さに恵まれているのである。西洋の哲学者の言にもあるとおり、「事実が最後の証明者である」。それは要するにこうした心になったお蔭である。

ですから現在、運命なり健康なり、何事かに、不平不満なりあるいはままならなさを感じる人は、とにかくその事柄にこだわる心を前述のとおり、まず感謝と満足の方へと振り替える心の態度をとることである。

もちろん、心に対する真理と方法とを会得している諸君は、凡人が感じるような困難を感じることなく、むしろ容易に、心の振り替えを現実にすることができることは、当然のことと確信している。

要するに、ただひたすらに実行するのみである。

すなわち、実行がこれに伴わなければ、秘法も密法も何の役にもたたない。

それゆえ、不幸に直面したら、まずその不幸に際してもなお生命を失わず、現在生きていられることを感謝することに、心を振り向けるべきである。すると、そうした心がけそれ自体が、幸福を招き寄せる原動力となるのである。

だから、英国の諺にも、「汝が不幸の時には幸福であると模倣せよ」というのがある。

また「人は、自分の心の持ち方一つで、どの程度でも幸福になれるものである」というのがある。

結論すれば、理論よりは事実である。そうでなくても自分の生命は絶対に他の何ものとも取り替えることのできない貴重なものである以上、まして「天は自から助くるものを助く」という真理が、絶対に覆すことのできない状態で実在しているのだから、一日も早く、自分の心を真理に順応する謙虚なものとして、真の幸福を受け入れることを心の底から強く奨める。

昭和四十二年九月「志るべ」八十五号所収「新箴言註釈二十五」現代語表記・編集部編

真人たらんには その生活を考慮するに先ち

生存を確保することを 第一に認識するべし

新箴言註釈二十四 現代語表記版

この箴言は、我々天風会で開催する心身統一法の講習会の入会日の一番最初に、安武副会長かまたは井上講師か杉山博士のどちらかが、天風教義の根本原則に対する教えを説く時、必ず解説される重要な問題である。

そして、それを序論として連日講習する教義は、その大部分が、この箴言誦句の中心になっている生命の生存確保の実際的手段と方法である、ということは、天風会に入会された諸君はすでにご承知の通りである。

がしかし、世の人々の多くを見てみると、案外、相当な教養のある人でも、日々の生命というものに対して生活という一面のみを考慮することにその人生の重点を置いて、何よりも疎かにすることの許されない生存という人生の基盤である重大事を、むしろ考えなさ過ぎると言ってよいほど、生存ということを全く考慮の外に置いて、しかもそれで万全の人生を獲得、もしくは建設できるもののように考えて、その考えが人生対処法に対して極めて不完全なものであるということを少しも気づかず、毎日をただ生活の事のみを中心に考え、それを実行することに日もこれ足らずというふうに、あくせくと心を使って貴重な人生を過ごしているという実際的傾向がある。

この点については、前掲の各講師が講習のたびごとに更に詳しく言及していることであるから、最早諸君は充分に了解されているはずである。

すなわち、生活の事ばかりを重視して熱心になるというのは、詳しく言えばいかにして利益を多くしようとか、今日はどこに行こうかとか、どうすればもっと楽しめるかとか、あるいは何かうまいものを食べようとか、よい衣服を身に着けようとか、たのしい恋愛をしようとか等々の種々雑多なことである。

これは人生の一方に存在する、もちろん考えられるべき、いや考えなければならない活きることに対する重要な事柄には相違ない。がしかし、真人としての正しい完全な人生に活きるためには、人生というものの奥に存在する厳粛な事実を忘れてはならない。それは生命の存在を確保するということである。

もっと詳しくいえば、あれが欲しい、これをこうしたい、ああしたいと欲求する想いが人間の心に生ずるのは、ただ一つに活きている「命」があるからである。

生命が活きていなければ、どんなものをも欲求する想いが生じてくるはずがない。

多くの人々は、我々が日々いろいろな欲求や感情を心に思わせつつ生活ができるのは、その生命が生存しているからだという重大なことに、案外気づいていないようである。

したがって結論的にいうと、こうした慣習が、自然と心と身体を統一して活きるという人間の正真正銘な活き方を考えない、という残念な結果に陥っていると言える。

であるから、それを完全に是正する厳格な必要条件として、我々の提唱する心身統一法は、その根本原則の第一の教えとして、生存の確保という事を強調する理由であると、これまた各講師が毎回懇切丁寧に教え導いているところであるから、無論諸君は充分理解し、実行に専念していると信じるが・・・

実際!! いつも絶えず説いているとおり、会員諸君のような真人生建設の真理と方法とを知っている人はとにかく、知らない人々は、その生命が健康な時には何の反省も感ずるところなく、ただ、心に浮かぶに任せて生じる欲求のみを中心とする生活にひたすら活きているが、第一に健康や運命に困難が降りかかると、ただ、薬事療法とか、食事療法等々、肉体本位の手段のみでこれを回復もしくは救済しようとする。

ところが、平素生存の確保という、生活ということよりも、より以上真剣に考えなければならないことを実行していない生命には、どのような方法や手段をもってしても、相対的な効果はあっても、絶対的な効果を獲得することはできないのである。

というのは肝心要のいのちのちから(生命力)が萎縮し減退しているからである。

そのため、努力もただむなしく、効果は極めて少ないという残念な結果が、心ならずも招かれるのである。

事実において、この種類の人がいかに現代の世に多くいるかということを見聞きするたびごとに、心に強烈に感じることは、我々のように生存確保の真理とその実際方法とを知り、かつ実行する者の幸福への感謝である。

実際! 生存確保ということを人生を考えるうえで考慮の中に入れないで生きる人は、前述した理由でどんな方法や手段を行ったところで、完全な成果をいくら期待しても、健康や運命に対していかなる方法や手段を実行してみても、現実に満足するものを獲得することは不可能である。

慎重に考えて見よう!

真理というものは、厳然としてこれらの事情を、いつも事実という動かすことのできない証拠で明らかにこれを立証しているからである。

である以上、人間が時々病になったり、運命が悪くなるのを当然のことと思ったり、または避けることができない止むを得ない業(カルマ)のように考える考え方は、断然訂正すべきである。

特に、健康難のごときは、人間の寿命の絶えるとき以外は、そう滅多やたらと病に侵されるはずがないのが絶対の真理である。

しかるに、その反対の状態の人生に活きている人の多いのは、すなわち要約すれば、原因あっての結果で、俗にいう蒔かぬ種には花は咲かないのと同様で、何事もいわゆる論より証拠のたとえの通り、きっぱりと心を入れ変えてこの点を反省し、生命の生存確保の方法を正しく実行すると、即座に宇宙エネルギーの受け入れ態勢が期せずして用意されることになるために、自然と生命活力が充実してきて、健康などはもちろん、運命関係も天風会神戸支部の青年会員のモットーのように、あたかも「天馬空を行く」がごとくに極めて有意義に、感謝してもしきれないほど、現実があるべき姿に復元されるのである。

考えるに、前述した神戸天風青年会員が「天馬空」という言葉を愛誦する標語として機関雑誌に記載しているのも、実践から体得した真のよろこびと感謝の偽ることのない表現だと、確信をもって賞賛する。

だから何はともあれ、要は生存を確保する方法を、真剣に、言われたとおりに実行する者は、常に価値高い生命力が充実していて、どのような場合にも颯爽溌剌と生命力が躍動しているために、むやみに病難や運命難に侵されるはずがないのが、明らかな絶対真理である。

であるから、我々の実践する統一道の真理と事実とをまだ知らないでいる知人や友人が諸君の交際範囲やグループの中におられるならば、諸君の霊性の中に備わった尊い人類愛という感情をもって、生存の確保と、生命活動をつかさどる中枢機関である神経系統の生活機能との密接な関係を説き、それらの人々に正しい人生の自覚を促し、真の人生幸福に活きている我々統一道の同志として導き、人生真理を知り、かつまた健康や運命を完全にして活きる真人を増やすことに貢献されることを、諸君の尊い人生に徳を積み、そしてまた人生に対する責務のために、心より提唱する。

否、このようにして初めて、真理に導かれた天恩に心からの感謝を捧げることとなり、同時にそういう人こそ期せずして常に幸福に恵まれる真人となることができる人であると、あえて重ねて強く申上げる。

否、否、心ある人間なら誰でも、恩恵を受けて感謝を感じない者は無いはずである。もしも、恩恵を恩恵と思わない者がいれば、その人は犬猫にも劣る軽蔑されるべき卑しい「忘恩の輩」というべき人間である。

かくいう天風が、いわゆる人生に対する慾望の最も盛んな年齢四十歳の時、道端の木の下や石の上を棲家とすることもいとわない決意をもってこの法の普及を心に誓ったのも、取るに足らない凡人であった者が、偶然の動機から真理を悟らせられ、その上数多い実際方法まで霊感を得て自ら会得したという、考えても考え切れない、計り知れない天恩を授けられた深い恵みを思えばこそである。

しかも、諸君においても、天風と同様な恩恵に浴していると厳粛に考慮されるべきであると思う。ましてや諸君は労少なくして得ることが多いという、天風より遥かに幸せに恵まれた恩恵を与えられている。

その点に考えを巡らせば、真理の実践に勤勉であると同時に、善行を施すことに力を尽くすべしという天風の真意の在るところも、充分に了解されることと信ずる。

心より願うのは、お互いに清い心で尊さに慣れていないかを反省し、生存確保の実践に努力することである。

昭和四十二年五月「志るべ」八十四号所収「新箴言註釈二十四」」現代語表記・編集部編

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