中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

真善美という事は人の心の何れに該当するものかというに
真と美とは本心に固有するもので善とは良心の能動より発動する情緒である

箴言註釈二十五 現代語表記版

真、善、美という言葉は、洋の東西を問わず、昔からどの宗教でも、それを「神」の心意なりといっている。

そもそも「神」と称されるものは、これを科学的に理論づければ、「宇宙創造の根本主体=万物を造り出すヴリル発生の源」に対する尊称に他ならない。勿論これは諸君のよく知っているところであると信ずる。

そこで、どういう理由で「神」なるものの心意が真、善、美であるといわれるのかというと、哲学的な思索でも、又科学的に考えても、宇宙創造の根本主体の造り出すもののすべてが、換言すれば、万物を造りだすヴリルのその活動状態とその結果の一切が、如何なる場合にも真、善、美そのままであり、絶対にそれ以外の何ものでも無いがためである。

この事情はあえて深く考えるまでもなく、自然界も、一切の事象一切の事物の現象を見ても、そのすべてが完全ということへの意図の現れで、少しもそこに破壊のためへの破壊というものがないのを見ても、すぐに明白になる。

いや、一見破壊らしく見えるものでも、事細かく検討すれば、そのすべてが完成への一過程としての破壊でしかないということが納得できる。

要するに、前にも言ったとおり、古来より、洋の東西を問わず、一切の宗教が真、善、美=神の心意という理由は、実にこの点に存在するのである。

それだけでなく、われわれ人間というものは、この宇宙創造の根本主体が造り出したものの中で、最も優秀にして厳かな存在である。

言い換えるならば、宇宙創造の根本主体(神=造物主)なるものの造られた作品の中で、一番優れた完全さを多くもつものなのである。

従って、その当然の結果として、人間の心意の中にも又、その造り主の心意である真、善、美というものが分け与えられているのである。

それではこの真、善、美が、人の心のいずれに該当するかというと、箴言どおり、真と美は本心(intrinsic mind)に本来備わっており、善なるものは良心(conscience)の能動に際して、必然的に発動する純真な情緒(心情)のことで、しかも何人にも、男女の別なく生まれながらに与えられているものなのである。

既に研修科において、心意識についての分析的説明の講演を聴かれた会員諸君は、本心又は良心なるものは、本能心や理性心の中にあるものではなく、人間の最高意識である霊性意識の中に厳として存在しているものであることを、正しく理解されていることと信じる。

しかも、この霊性意識こそ、宇宙創造の根本主体(神=造物主)に直接に相通じる心意であるということも、夏の修練会において践行される真理瞑想行で、修練会員の一同が完全に会得されたことと確信する。(テレパシー=感通作用や、クレアボヤンス=感応作用能力の実験で実際に体験したことを思い起こして考えるとよい)

そこで次に、この神に通ずるという霊性意識領内の本心に備わっている真と美というものについて、言及することとする。

真とはいわゆる「まこと」のことで「まこと」とはありのままの姿=何の虚飾も偽りも形容も無いそのままの、即ち絶対の本然!! のことなのである。(後段掲記の「誠の解」の詩句参照)

次に、美とは、分り易くいえば、完全調和状態(whole harmonization)をいうのである。

多くいうまでもなく、本心そのものが、既に、完全無欠なものなのであるから、それが活動状態になれば、すべてに調和=和合=同化を働きかけるのが、これもまた必然のことである。

それから、善とはそもそも如何なることかというと、遺憾ながら、現代にはいろいろな理屈や議論を口にしたり書いたりしきりにする人が多い割合に、善というものの真の意義を正しく理解している人が極めて少ないようである。従って、善とは悪に対する反対語という風に至極簡単に考えている人が多い。

しかも、それでは悪とは何かと問えば、よくないこと、わるいことであると平然と答える。そしてよくないこと、わるいこととはどんなことかと問えば、善ではないことだ、と答える。

しかし、これではどこまで行っても、要領を得ない、いわゆるうやむやなこんにゃく問答に終わることになる。

そこで、ならば善というものの真の意義はといえば、これを哲学的にいうならば、絶対愛の発露された心意、又はその心意を基盤として為される行為!! ということになる。

それでは、絶対愛とはそもそもどのようなことなのかというと、分かり易くいうならば、恨みや憎しみ、忌み嫌う情が何ら無い、純真無垢=純一無雑の愛の心情を指していうのである。だからもしも、われわれの心情に、ある人、ある事柄だけには愛の気もちを感じることができるけれども、事と人によってはどうしても愛の情を感じないなどというのは、真の善心の発露とはいえない。

たとえば、自分のものには愛を感じるが、自分に関係のないものには愛を感じないなどという愛は偏った愛で、決して絶対愛ではなく、強いていえば相対愛という価値のないものなのである。

もっと率直にいえば、そういう相対的な愛情というものは、霊性意識の領内にある良心という心意から発露するものではなくして、結局は肉性意識か、せいぜい心性意識から発露されたものなのである。

がいずれにしても、価値高い真人生である第一義的人生道(心身統一の生活)に活きようと意図するわれわれ天風会員は、必ず常に出来る限りどんな場合も、今述べてきた真、善、美を自己の実際的な心情として活きることに、油断することなく努力すべきである。

しかもその目的を現実に達成するには、講習会や研修科又は修練会で講義を受けた各種の方法を、真剣に実行すること以外に、他に合理的な方法が無いことを心に刻むべしである。

参考のため「誠」ということの意義を解き明かした詩句を添記しておく。


「誠の解」

誠之為字、従言従成、志之述之謂言、言之行之謂成、誠邦音麻古登 麻真也 実也 古登言也 事也 述而不行則不可謂誠、和漢同義者如是矣 至之為義 由此達彼也 達乎 誠之極之謂至誠 人而至誠 則神人感応 百事尽享 吾邦所謂和魂 文天祥所謂正気 孟子所謂浩然 其語雖異 其所帰則一也 嗚呼人々服膺至誠二字 拳々勿失 惟身之可修家之可齊而已哉 其積徳之所及 光被四海亦非難也


(読み下し)

誠の字たるや、言に従い成に従う。これを志しこれを述ぶるを言と謂い、これを言いこれを行うを成と謂う。誠は邦音にて麻古登、麻は真なり実なり。古登は言なり事なり。述べて行わざればすなわち誠と謂うべからず。

和漢同義かくの如し。至の義たるや、これによって彼に達するなり。達するや、誠の極みにしてこれを至誠と謂う。人にして誠に至れば、則ち神人感応し、百事をことごとく享く。

吾が邦のいわゆる和魂、文天祥のいわゆる正気、孟子のいわゆる浩然、その語異なると雖も、その帰するところは則ち一なり。

ああ、人々至誠の二字を服膺し、拳々失うこと勿れ。身の修むべく家の齊うべきを惟みるのみ、その積徳の及ぶ所、四海を光被することもまた難きにあらざるなり。


(意味)
誠という字は言と成からできている。これを志し、これを述べることを言といい、これを言いこれを行うことを成という。誠はわが国では麻古登で、麻は真であり実である。古登は言であり事である。述べて行わなければ誠といえない。

わが国でも中国でも同じである。誠の道はこれによって向上するものである。達すると誠の極みで、これを至誠という。人が誠に至れば神と人は感応し、万事ことごとくうまくいく。

わが国のいわゆる大和魂、文天祥のいわゆる正気、孟子のいわゆる浩然は、言葉は違うけれども、つまりは同じことである。

人々よ、至誠の二字を自分のものとして、肝に銘じて忘れないようにしなさい。身を修めて家をととのえることに専念しなさい。徳を積めばその光が世界を被うことも難しくはないのである。


 『天風哲人箴言註釈』昭和三十八年発行、「箴言二十五」現代語表記・編集部編

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