中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

活きる事の努力のみに追はれて生活の中の情味というものを味はないと
人生はどんな場合にも真の活きかいというものを感じない

箴言註釈十三 現代語表記版

私は、いつも思う。

世の中の人の多くは、なぜもっと生活の中の情味というものを味わって活きようとしないのかと・・・。

というのは、世の中の人々の生活への態度を見ると、頼もしい積極的な生活をしている人が事実において極めて少なく、概(おおむ)ね多くは、消極的な、勢いの無い力弱い生活に終始している人が多いからである

それというのも、結局は、生活の中の情味というものを味わって活きようとしないからで、生活の中の情味というものを味わって活きようとしないと、その結果は、ただ悲しいとか、苦しいとか、腹が立つとか、辛いとか等々の、人生の消極的方面にのみ、その心が引きつけられて、いささかも大きい楽しさを感じないで、ただ活きるがためだけの努力に終始し、二度と現実に帰らない日々を極めて価値なく過ごしてしまうという、無意味な人生で終わってしまうことになる。

だから、率直にいえば、そういう人は「人間は、ただ活きるがために働かねばならないのだ」というふうに、「働く」ということの価値を第二義的におとしめ、働くということこそが人間の本来の在り方で、言い換えれば活きるがために働くのではなく、働くために活きているのだという正しい第一義的な考え方を、「働く」ということに対してもっていない。

従ってその当然の結果として、働くことに対する報酬に、多くの場合満足感を感じない。言い換えると、働いた結果が自分の思うように現れないと、すぐに不平や不満、あるいは時によっては自暴自棄にさえ陥る。又そこまでにはならないまでも、活きる楽しさを感じない力弱い人生に活きるしかなくなる。

だから、真に活きがいのある人生に活きようとするならば、何としても我々は、自分の生活の中にある情味というものを味わうということを、心がけるべきである。否、厳格にいえば、この心がけを欠如した人の人生は、如何に地位が出来ようと、又かりに富を作ることができたとしても、結局は何の意義もない、空虚で、荒涼たるものになる。

多くの人の特にいけないことは、生活の中の情味ということを、物質方面にのみ求めることである。生活の中の情味を味わうということは、心の問題であって、物質の問題ではないのである。

如何に豊かな収入があり、満ち足りた物質を得ても、心がその生活の中に情味を味わうことができなければ、有るも無きに等しい。

俗に言うところの、金持貧乏とか、位倒(くらいだお)れという言葉は、こういうことの形容詞なのである。

これは、深く考えなくとも、良識のある人ならすぐ理解出来るはずである。

例えば、客観的にどんなに恵まれているように見えている人でも、その人が、現在の境遇に飽き足らず、満足感を感じていないならばどうであろう?

これに引きかえて、仮に客観的には恵まれていない、不幸な人に見えていたとしても、その人が、一日の仕事をおえて、たとえ貧しい食事でその空腹を満たす時でも、それが自分の尊い労働の花であり、心身を働かした努力の実りであると、無限の感謝で考えたならどうであろう?

大豪邸に住んで暖かい着物に包まれ、飽きるほど食べてもなお、なんら感謝も感激もなく、ただあるものは不平と不満だけという憐れな人生と比較して、人生の一切を感謝に振り替え、感激に置き換えて活きられるならば、はっきりとそこにあるものは、本当に高貴な価値の尊い人生ではないでしょうか!!

否、こうした心がけを現実に実行することこそ、活きている一瞬一瞬に、何とも形容のできない微妙な面白味が自然と心の中に生じてきて、どんな時にも生活の情味というものを当然味わうことができるようになる。

だから厳格にいえば、生活の情味を味わわずして活きている人には、本当の人生はないといえる。もっと極言すれば、人間の幸福とか不幸というものは、結局、生活の情味を味わって活きるか否かに掛かっていると言える。

前にも言った通り、貴賎貧富(きせんひんぷ)などというものは第二義的のものである。実際、如何にうなるほど金があっても、高い地位や名誉があっても、生活の中の情味を味わおうとしない人は、いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。

もっともこう言うと、中には現代のようなせち辛い世の中、ちょっとした面白味さえ感じることなど少ない時代に、生活の中から情味を見出せよなどということは、随分無理な注文だと思う人があるかも知れない。しかしそういう人は、遠慮なく言えば、人生生活の見方が余りにも狭く、また強いていえば平面的であるがためである。

なるほど、その生活に負わされている負担や犠牲という方面のみを考えると、およそ人間の生活くらい苦しく、辛く、悩ましいものはないと思われよう。そして考えれば考える程、苦と楽の両感情が妙にこんがらかって、苦しいような、楽しいような、自分自身でも訳の分からぬ不思議な込み入った感情の渦に、巻き込まれていることさえあるであろう。

しかし、もっともっと立体的に、人生というものは観察すべきである。そうすると、思いもよらず生活の範囲の広いことと、同時にその内容がちょうど精巧な織物の様に、極めて複雑な色模様で織りなされていることが感じとれる。

そしてその直感というものが、生活の中から、相当楽しく、面白く愉快で、心地よいと思えるものを、かなり量多く見出してくれるのである。

だから何としても、真理に則して人生に活きようと志す尊い自覚をもつわれわれ天風会員は、常に注意深く、日々の自己の生活の中から、出来るだけ多く情味を味わうように心がけねばならぬ。

それにつけても特に知っておきたいことは、生活の情味というものは楽しい事柄の中にのみあるのではなく、又そうかといって金や物質の豊かなときにのみあるのではない。

悲しいときにも、又悲しい事柄の中にもある。まして人間社会の階級の差に何ら関係はないのである。

否、むしろ富貴や地位に活きるものは、生活の情味をそうしたものの中から獲得しようとするために、真の味わいを味わい難く、従って真の幸福というものを充分に味わい得ることが容易でない。

だからこの真理を厳粛に考察して、出来得る限り、広くかつ深く、生活の中から情味を見出すことに努力しよう。もっともっと観念要素を更改し、積極観念の集中力を養成し、神経反射の調節を入念に実行してその実現に努めよう。

要は、心の力を強めることである。

そうすれば、われわれの命の活きる範囲は益々広がっていき、内容もいよいよ豊かになり、そして自然と幸福も分量多く感じることが出来るようになる。

つまりは、これ又常に折りある毎に説いているとおり、人生はSein(ザイン。註・存在しているだけ)ではいけない、Werden(エルデン。註・如何に活きるか)であらねばならないというのも、この理由なのである。即ち人生に対する心構えはto be(註・生きているだけ)ではいけない。to grow(註・進化)でなければならぬということなのである。分かり易くいえば、人生というものは、ただ単なる「存在」として活きるのでなく、恒に「生成」を心がけるべきである。

もっと理論を推し進めれば、人間は人間としての心意で以て、人生を如何に正しく作り上げるかということを、考慮すべきである。そして初めて人間の本来の使命に順応することになる。

それは何をおいても、この世の中に先ず正しく活きるために、どのような人生の事情をも楽しみに振り替えて、常にエルデンに活きよ、である。

かくして初めて人間の生命の価値を感じることができ、同時にそれが本当の人生に対する正当な自覚であり、また尊い責務だと信ずる。


★参考資料
【Sein】ザイン・ドイツ語、英語のbe動詞に相当する。哲学用語としては「存在」と訳され、如何にあるかということと、Sollen(ゾレン・「当為」、まさに為すべきこと、あるべきこと)は二元論として対照され、新カント派哲学として大正時代の日本の思想界に大きな影響を与え、現実と理想、天皇と天皇制など盛んに論議された。
【werden】エルデン又はヴェルデン・ドイツ語、本動詞として「~になる」、英語のbecomeの意味をもつほか、過去分詞と共に受動態、不定詞と共に未来 (あるいは推量) を作る助動詞でもある。哲学的には「生成」と訳され、「これから如何に進むべきか」という問題提起である。存在から生成(発展)へという哲学的考え方は、現代では社会学、経済学、物理学などの発想のキーワードにもなっている。


『天風哲人箴言註釈』昭和三十八年発行、「箴言十三」現代語表記・編集部編

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