
新箴言註釈八 現代語表記版
多くいうまでもなく、人間とは、万物の霊長たる優秀な生物である。
従って、その生命の力は、当然また向上的なものである。
それは、現在我々が毎日現実に見聞きする多くの新しい発明や、価値高い独創的なアイデアなどに思いを馳せれば、この重大な事実にすぐにピンとくるはずである。
であるのに、それをそうだと正しく認識して、人生を価値高く活きている人は、むしろ余りにも少ない数であるような感がある。
そうして、そういう人に限って、どのような現実を見聞きしても、それは特別な生まれつきの人か、さもなければ、普通の人間を越えたその種の才能を、凡人が到底及ぶこともできない難行苦行等の努力によって克ち得た特別な人と思い込んで、自分などには、そうした「力」は皆無であると自己断定を敢えてしている。
しかも、この自己断定が、自己認識が不完全であるという軽率さからきているものであると気づいてない。
そして、この自己認識の不完全さということは、自分という人間というものの生命の力が、生まれながらに向上的なものであるということを、正しく気づいていない大きな間違いから生まれたものなのである。
しかし、誠に残念なことながら、それをもなおかつ自覚していないのだから、頭から自己の力を否定的に考えて、努力しさえすればだれでも、男女の区別なく、自己を現在より遥かに価値高く向上させ得るものであるという、すなわち人間の生命の力の本来は、努力という推進力を与えさえすれば、それはちょうど下り坂を走る車に加勢を与えて押したのと同様に、極めて容易に向上するものであるということを信じない。
そしていつも自分は駄目だというように考えるという憐れな自己否定を平気で行う。すると、その当然の結果は、何事に対しても真剣な努力を継続的に集中させようとしなくなる。
現にたまたま努力するかと思うと、それがしばしの間で永続しない人の多いのが、何よりのよい証拠である。
これでは向上どころか、反対に自己向下を、知らず知らずの間に誘発することになるのみである。
しかし人間として仮にもこうなったのでは、せっかく人間に生まれ出たかいが少しもないということになる。
しかも、それも、これも、人間の生命の力に対する自信があまりにも曖昧であるからである。
およそ人間何が憐れだといって、自己を信ずることの出来ないことほど憐れなものはない。
そういう人は、努力さえすれば出世成功のできる人間を、残念にもただ何年かその生命をこの世に活かしていたというだけで、結局は平々凡々でその生涯を終るという愚かな終末で締めくくってしまう。
要約すれば、こうした人生は、人の生命の力の向上に対する自信の欠如の結果が招いたもので、つまり自業自得というべきである。
したがって、自己の向上に少しでも不足不満を感じる人は、この箴言を指針として、厳かに反省すべしである。
昭和三十九年三月「志るべ」六十八号所収「新箴言註釈八」現代語表記・編集部編