中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

真の平和の世界を作為せんと欲するものは

先づ個々の家庭平和を確立することを実行すべし

新箴言註釈十一 現代語表記版

世界平和ということは、なにも敢えて今更の問題ではなく、いつの時代においても、心ある人々の希望する現実的な願いである。

であるにもかかわらず、歴史の現実をみると、たとえ半世紀の短期間といえども、全世界のどこにも、何らかの民族間のトラブルが絶無であったという、いわゆる真の平和時代というものは、かつて過去において全く無かった。

もっとも識者の中には、それもまた、平和であろうと意図する人間の欲望に伴って生まれてくる、避けられない事態であるという人もいる。

もちろんそう考えられる場合も無いではないが、むしろその大部分は、民族相互の生存を確保しようとする利害関係の対立が、その主因となっている場合が多く、しかも、その主因となっている事実よりも、そのトラブルの解決途上における感情的な問題という心理的現象が、もっと早く和解のできる場合をも、ことさら紛糾に陥れることを余儀なくしている傾向が実際にあるのは、過去の史実がこれを証明している。

多くいうまでもなく、およそ物事の判断に感情が入ると、勢い公平な結論を導くことを妨げるということは、誰でも冷静なとらわれのない心であれば考えがつくことである。

それが、いざ実際の問題として直面するとなると、理屈と事実とはいつも逆になって、特に冷静で厳しく対処すべき国際的な重大問題に対しても、結局はお互いにいつしか感情的になって、容易に事態の収拾も解決も進まないという状態が、むしろ普通になっている。

しかしこれでは、世界平和ということがただ通り一遍のお題目に過ぎないこととなって、結局はできそうでなかなかできないという、何の役にも立たない空文的繰り返しが、世界の情勢の中で行われているだけのこととなる。

しかもこのくらいのことは、誰でもよく分っているはずではないでしょうか?

であるにもかかわらず、事態がまさにこのようであるのは、要するに、個人個人の人生生活が、余りにも平素感情本位で行われているということが、その大きな原因をなしているといえる。

否、もっと極言すれば、そうした疎かにはできない事実にさえ、全く気づかない無関心さで、却って感情本位の生活こそ人間生活の態度のようにさえ思っている人が多いからである。

その証拠には、家族以外の人に対しては耐えられる事も、家庭内においては全く耐えられない、否、耐える必要が無いように、それが当然の事のように思っている人がいかに多いかである。よくよく考えてみるに、家庭生活の大部分を感情本位に送っているような人が、自分のそういう点に気づいているかいないかを問わず、それが習性になっている以上、その習性化されている人々が社会や国家を形成している限りは、当然の結果として、世界平和というものが実現される日を遠い将来に置かざるをえないと思うのである。

なぜならば、感情本位の生活を送っている家庭には、真の平和というものがないからである。

真の平和とは、お互いに克己し、お互いに自制し、お互いに相譲り、相敬い、相愛し、相たのしみ、相導き、相助け合う、という完全調和の美しい気もちが、家庭を築いている各個人個人に持たれているということが、何よりの先決条件である。

感情本位の人には、今述べたそのどれもがいつも公平に実行できていないのが、残念なところである。

こうした真の平和生活のできない人々が相集まって作った社会や国家が、前掲の通り、どうして真の平和を作り上げることができるだろうか。

多くいうまでもなく、同じ民族意識をもった人の総和と統合がその国家の結成要素をなすからである。

したがって、真の平和の内容が欠如した国と国とが世界を形成している以上は、既に述べた通り、真人の希望する真の世界平和は、遠い後の世に待つ以外に方法なしというのも、決して誤った断定ではないと思う。

敢えて言う、「先ず隗より始めよ(註・身近なことから始めよ)」のたとえの通り、真の世界平和建設のプライオリティ・プリンシプル(註・priority principle優先原則)は、言うまでもなく、すべての個人個人の家庭生活を先ず真の平和境とすることに努力すべきである。

思えば、これこそ誠に遥か昔より永遠の将来まで、歴然として一貫する世界平和建設の絶対真理であると、断固として確信するものである。
 Be not the first to quarrel nor the last to make it up.
 争うに先たつことなかれ 和するに後るることなかれ

昭和三十九年十一月「志るべ」七十一号所収「新箴言註釈十一」現代語表記・編集部

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