今月の天風箴言

日常生活を行う際 能う限り「善」なることを行おうと
心かけるのは 人生の最も尊といことである

新箴言註釈23 現代語表記版

まず第一に、正しい認識を自覚する必要があるのは、「善」とはそもそもいかなることかという大切な事柄である。

そこで「善」とは、そもそもどういうことであるかというと、普通の人は、古今東西を問わず、「善」とはその反対的存在の悪というものでない言動であると、大体はただ簡単率直に考えている傾向がある。しかし、これだけでは完全な解答というより、むしろ理解が徹底していないという不満が残る。

というのは、仔細に自己の内面を検討してみると、これだけでは分ったような分っていないような、極めて曖昧な疑わしさが後に残るからである。

これは、結局悪というものの実体がハッキリしないことによるのである。

昔の儒学の教えでは、「善」というものは、道徳的規範に従うことと言っている。

そして道徳的規範とは、正しい人の道のことで、従って、悪とはこれに反するものと説いている。

だが既に諸君は天風教義の講演でしばしば聴かれているとおり、道徳とか倫理というものには、いわゆる人が説いた道理と、大宇宙の真理の二種類がある。

大宇宙の真理は永遠に変わることのないものであるが、人の説く道徳倫理というものは、結局は一時的なものが多く、言い換えると、時代の推移に従って当然変わってくる。

すなわち、昨日の非が今日の是となるか、あるいはその反対になる場合や事実が非常に多い。

たとえば、身近な例として「男女七歳にして席を同じうすべからず」というようなものは、二千年の昔、儒教思想の盛んな時代にはこれが最も正しい人の道であって、これに背く者は、道徳に従わない、すなわち善でない者と判定された。

しかし、現代は全くこれと正反対である。これは前述したように、時代の推移に伴う人為的道徳論の変異である。

実際! このように、昨日の悪が今日の善となり、今日の善がまた明日の悪になるかもしれないのが、同じ道徳倫理といっても、人が説いた道理によって作られたものでは確定性に乏しい。

従って儒学の説く「善」の定義は、要は抽象的になる傾向があると言ってよいと思う。

更に、哲学では「善」なるものに対する定義として、「第一にまず何より先に必要なことは、どのような言動であっても肯定されるべき価値をもつものでなくてはならない」と主張する。

そして「それも厳格に客観的な法則に合致することを必須の条件とする」と強調している。

が、私は考える!!

この哲学的定義も、普通の人には理解を完全に徹底させるには非常に困難を感じると。というのは一番困るのは、肯定されるべき価値というものの認識と判断とを、一体何に求めるべきかが大きな心の問題となるからである。

すなわちそれを、単なる常識に任すべきか、それとも高級な理性によるべきか、それともまた良識と称する第六感以上の良心の発揮に求めるべきか?

これが通常普通では解決のできない難問題なのである。

なぜかという問いに簡潔に言えば、自分の心が自分の心を考えるとき、これも平素しばしば説いているとおり、どこまでが考えている心で、どこまでが考えられている心かということが、考えが深まれば深まるほど、客観と主観との観念を判定する境界が不明瞭となり、結局は思索が惑いや混迷で占められるだけの結果になるためである。

要するに、世の人々の多くが「善」ということを口にし、筆にしていながら、いざ現実の人生の問題に直面対応すると、往々というよりしばしばと言ってよいほどに、「不善」を言葉や態度に出してしまうのも、思うにその原因は、おそらくはこれらの事情の内に存在していると断定しても大した的外れでないと、心理分析の上から明白に言える。

そこで私が特にあえて諸君に強く勧めたいことは、前掲の箴言のとおり、日常生活を送る際、出来る限り善であることを行おうとするには、第一に善なるものを理屈やまたはその時々の自己感情で判断するよりは、一番率直明快なこの上ない手段である、自己のそのときの言動が普遍的妥当性(Universal Validity)をもっているか否かを、考慮のポイントとすることである。

もっと分り易くいえば、日常の人生生活を、自他のいずれに対しても、独りぎめの我がままな自己本位の気持ちでなく、お互いに人間同士の間柄を極めて円満に融和させる、普遍的妥当性の言葉と行為のみで行おうと心がけて、かつそれを確実に実行することなのである。

そうすれば、それが期せずして、一切すべてがそのまま善なるものに共通するからである。

否、このようにして初めてその人の人生は、万物の霊長としての真の人格を発揮した尊厳なものになり得るのである。

その昔儒聖の言った言葉に、
「自ら省みて疾ましからずんば千万人といえどもわれ行かん!!」というのがあるが、この疾ましからずんばというのは、突き詰めれば、その思索の内容に普遍的妥当性が存在しているという必須条件があるからであると、あえて明言する。

そこでここに、諸君に特に普遍的妥当性の言動を真に実行することを容易に現実化する最も最良、適確な理想的方法を、天風教義の上からお奨めし、導くこととする。

それはどのような方法かというと、要点を言えば、
「不偏愛の実行」ということである!!

そもそも不偏愛とは何を意味するか、というと、率直にいえば何ものをも憎むことのない公平無私の純正なる愛情をもって、人にも物にも、否ありとあらゆる一切に対して平等に接することである。燦々と降り注ぐ陽光と同様に。

しかも、この不偏愛の実行ということは、ただ単に善のみを実践する秘訣であるばかりでなく、厳格な意味から言って、真人生本来の真の在り方なのである。

だから、万一愛の情に偏りがあるのでは、本当の人とは言えないのである。

第一愛情に偏りを生ずるのは、その人の心に好悪の感情に激しいものがある結果なのである。

そして好悪の感情の激しい人は、誰よりも本人それ自身が、結局は心ならずもその人生を極めて狭いものにしてしまう。

それは、愛情をもった時の心の感じと、人や物を憎悪したときの心の感じを比較して考えれば、直ちにはっきりする。

すなわち、愛する気持ちより憎む気持ちの方がよいか否か? 精神異常者でない限りは、必ず憎悪を嫌うに決まっている。

がとにかく好悪感の激しい人は、自由自在ともいうべき、他の生物の比較にならないほどの自由で思いのままになる恩恵を受けている人生を、我がままで自制を欠いた自分勝手な心のために、知らず知らず自分自身を萎縮させ、その人生がついには自らの言動で身動きがつかなくなるというジレンマに陥る。

のみならず、これもしばしば説いているが、「人生の成功のゴールデンキー」ともいうべき人に好かれる要素という大事なものが、全く損なわれる。

言い換えると、好悪の差別感を甚だしくもつ人は、自分もまた他人から同様に好悪される。

すると前述のとおり、果てしなく広い天地にいながら、極めて範囲の狭い人生に生きるように自然とならざるを得なくなる。

これに反し、好悪感から脱っすることができて人に好かれる人になれば、人生は平らな砥石のように平坦で、思うままの満ち足りた人となれる。

一番よい証拠は、過去の日本の出世頭といわれる秀吉で考えてみよう。たとえその機略智謀に優れたものをもっていたとはいえ、身分なくしては出世が不可能な時代、そのうえ狂的とまでいわれた異常な癇癖症である信長に仕えて、何ら大きな失敗もなく、出世街道を気持ちよく邁進したのは、秀吉の特徴ともいうべき人に好かれる要素を多分にもっていたからである。

簡単に人を誉めない信長でさえ、「彼奴は憎めぬ、うい奴(愛すべき者)だ」と秀吉を批評していたという説がある。

とにかく、人というものは、知識や経験や能力等がいくら優れていても、人に好かれる要素に欠けていたのでは、人と人との間にあって生存し生活する、いわゆる人間としての存在資格を完全に確保することは到底難しい。

言葉を換えていうなれば、その種の人は、広義において人の世から村八分にされてしまうのと同様になるからである。

よく広い世の中に、こうした種類の人が存在していることを目にする。あれほど偉く優れている人が、なぜ大した出世も成功もしないのかという類の人・・・それを何か不運とか、さもなければカルマ(業)のように思う人があるが、結局は人に好かれる要素に欠けていることが、その大きな原因として見つかるに相違ない。

なぜならば、これまた口癖のように言っていることであるが、人は、体や心に極端な障害がない限りは、どんな人であれ、それ相応の出世・成功をするように生まれながら出来ているという、絶対真理があるからである。

であるにも係わらず、だらだらと時を過ごして一生を大したものにもならず終わってしまう人が現実に存在しているのは、要約すれば今述べた必須要素の養成を、生活条件の最大要項としてその考えの中に置かない間違いがあるからである。

しかし、この重大な要素が、不偏愛の実行に専念すると自然に完全に解決されるのである。

というのは、不偏愛と人に好かれる要素とは、決して今更の発見でも創意でもなく、前に書いたとおり、この宇宙創生の時からの絶対真理であるためである。

だからこそ、この世にある宗教のすべてが愛の情を最大に重視して、その教義の根本としているのである。

現に仏典にも三祖鑑智禅師(註・中国禅の第三祖とされる)『信心銘』に、最もわかり易く冒頭第一に「至道無難、唯嫌揀択、但莫憎愛、洞然明白」(註・至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。*最高の真理に至るのは難しいことではない。ただ選り好みをすることを嫌うだけである。ただ愛憎の念から離れれば、それは明白になる)と、日本文字の読める人なら一見してすぐに分る語句で説かれている。

いずれにしても不偏愛こそは、とりもなおさず、大宇宙の犯すべからざる絶対真理だということは、どんな時にも忘れてはいけない、心に銘記しておくべきことである。

したがって、結局はただひたむきに実行することにあるのみである。

それには、天風会員諸君にとって最も幸福ともいうべきは、諸君においては、普通の人が容易に知り得ていない精神統御に対する重要なしかもユニークな各種の方法を天風教義で会得しているために、この具体例による説明も一読して完全に理解され、またすぐに実行が極めて容易であると確信する。

よってなにとぞ、この箴言のそのままの人生に生きて、すべてにわたって人の世の幸福を念願とする、立派なリーダーとしての真人生に生きるべき正念を発心され、統一道という宇宙真理を全て伝える先覚者としての輝かしい真の本領を発揮されんことを、心より熱望するのみであります。


昭和42年3月「志るべ」83号所収「新箴言註釈23」現代語表記・編集部編

今月の天風箴言

人生は儘ならぬ世界と正念すれば 不自由や
不満というものを 少しも苦悶で感じなくなる

新箴言註釈22 現代語表記版

およそ人間の苦労というものを子細に検討すると、それは大抵自分の思うこと、考えること、とりわけ欲求することが、自分の思うようにならない場合の心のもつれから生じる心理現象である。

しかし、考えてみよう!

お互い人間が、もしもこの世が自分の思い通りになる世界だとしたら、一体どうであろうか?ということを・・・

平素人生というものを深く省みたことのない人は、もしそうなったら、さぞや人生というものはなんと幸福だろう!! と思われるかもしれない。

けれど・・・それが果たして幸福なものだろうか。

私は敢えていう。それは決して幸福なものではあり得ないと・・・。  

多くいうまでもなく、一切の物事の判断は、理論的な推定よりも、一番確実な「論より証拠」に依るべきである。

聖哲の言葉にも、
「事実は恒に無言の雄弁を以て、最後の立証者として、厳然としてその偉力を発揮する!!」
というのがあるが、全くその通りで、広いこの世の中には、思うこと願うことが満ち足りていて、いわゆる幸福だと思えるような人もいないことはない。

しかし、その人々は、客観的に考えられるほど、果たして絶大な幸福感を日々心に感じて愉しい生活を送っているでしょうか? 否である!

というのは・・・

その人々が、その現在に対して限りなく感謝満足して、その心の中に何らの要望も欲求も持たないのなら、それはたしかに幸福であろう・・・が、少しでも現在の状態に満足を感じないで、新しい要望や欲求が心の中に生ずるとしたら、どうでしょう?

英国の諺に
「金持ちほど欲が深い」というのがある。

この諺は、分り易くこれらの事情を言い当てたものであると思う。

というのも、人間の心の中に生ずる欲望という心理作用は、金持ちであろうとなかろうと、常に次から次へと新しいことをあれこれ考えて止むところがないものである。そしてその上に欲求心というものは、満たされても満たされても止まるところなく、際限なく起きるものなのである。

昔の道歌に
「おもう事一つかなえばまた二つ 三つ四つ五つ 六つかし(難し)の世や」というのがあるが、この歌こそ、あますところなく人間の欲望に対する心理現象を徹底的に批判したものといえる。

だから、しかもその欲望するものが仮に思いのままに与えられても、欲望心の発動は、断然、その時その場にストップしていないのである。すなわち絶え間なく連続する。

そして、その欲望が満たされようと満たされまいと、いずれにしても、この心理現象の連鎖的な反応というもので、絶えず形の変わった苦しみというものが、次から次へと心の中に発生して、結局心の平安が乱される。

しかも、こういう状態というものは、人間の精神態度が更改されない限り、言い換えれば心の持ち方が切り変えられない限りは、いかなる時代が来ようと、またいかなる身分や境遇になろうとも、いつまでたっても手を変え品を変え、人間を苦労させるのである。

英国の諺に"It always has been and it always will be"(註・これまでそうだったことは、将来にわたっていつもそうである)というのがあるが、確かにこの言葉は、人間の精神態度そのものが更改されない場合の人生に対する現実的批判に当てはまるものだと思う。

しかしいずれにせよ、人生はこのように常に心の中に何かしら気持ちが晴れないものをもって生きていたのでは、どんな地位や栄誉を勝ち得ても、またどんなに富を獲得しても、ほんとうの生きがいのある価値高い人生は味わえない。

生きがいのない無価値な人生に生きたのでは、人生を全く無意味に終ってしまう。

無意味な人生とは酔生夢死、すなわち為すところもなく虚しく一生を終わってしまうことである。考えるべしである!!

今更いうまでもなく、人生はただ一回である。

である以上、何としても生きがいのある価値高い人生に生きなければならない。

しかも生きがいのある価値高い人生に生きるには、必ず何をおいても、心の平安を確保することである。

そして、心の平安を確保するには、常日頃注意深く天風教義が強く提唱する積極的精神を、現実化するよう養い育てることである。

ところが一般世間の人々は、心の平安を確保するのに、常にその条件を外に求めるために、いつも失敗の苦汁を舐めさせられている。

すなわち、心の平安を確保する条件は、外にあるのではなく自分の内にあるのである。

易しくいえば、心ひとつの置きどころという事実こそ、その内因として重視すべき先決的条件なのである。

であるから、その内因を確実なものにするためには、先ず第一に、前掲の箴言の通りに、人生は儘ならないものというのが、犯すことのできない人の世の常であると正しく自覚することである。

そうすれば、この尊い自覚が直ちに心の本来の正しい姿と相呼応して、これまでしきりに不自由や不満という心理作用のために苦悶させられた悪現象が、自然と心の中から雲や霧が消えるようにあとかたもなく消え失せ、万が一自分の心の欲求するものが満たされないときでも少しも心を苦しめず、ただ現在あるそのもので満足するという階級の高い心の状態になることができる。

そして、いつも颯爽として、欲望に燃える炎の地獄に心が苦しめられなくなる。

要約すれば、こうして初めて不滅照心(註・永遠の真理に照応した心で生きること)の真人としての真の本領が発揮され、期せずして本当の幸福感に包まれた人生に、毎日愉々快々に生きることができるのである。

すなわちこれが、この箴言の根本なのである。

昭和42年1月「志るべ」82号所収「新箴言註釈22」現代語表記・編集部編

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