中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

何人も 成功を希望して居りながら 案外否らざるものの

多いのは その心に 積極性のものが 欠けて居るからである

新箴言註釈十九 現代語表記版

この箴言に対しては、特に註釈をしてわざわざ言及する必要のないほど、天風会員である諸君は、充分徹底的に理解されていると確信している。

というのは、多言するまでもなく、天風教義が、積極性ということを掲げ導く、第一義的な人生道であるからである。

したがって、縁あって天風会の会員となられた諸君は、男女老幼の別なく、心身統一法の講習会の序論から、すなわち心身統一の根本原則を聴講すると同時に、心の態度の積極的堅持が、その最も基本的な必須条件であるということを教えられている。

そして、定例の講習会も夏の特別修練会も、また秋季に開催される真理瞑想補成行修会においても、その目的とするところは、積極性の現実化に対する実際的な方法の修得である。そして半世紀にわたり、曲がることなくそれを説くことを前述のとおり終始一貫その方針とし、かつ現実に実行していることは、これまた、会員諸君のよく知るところである。

そもそも積極的精神態度が、人生自律の基盤として絶対的であるという理論は、天風自身が身を以って、あるときは病難に、またあるときは運命難に、思い返しても我ながら波瀾万丈などという言葉では到底その十分の一も形容できないと言ってよいほどの、危険以上の危険をあえて冒して体験した現実から直感したものである。

言い換えると、理論から得た知識をもとにして体験したものでなく、現実の体験から得たインスピレーションで、実感として認めたものなのである。

平素説くように、インスピレーションは、まさに的確な断定である。

それゆえどんな場合にも積極性を失うなかれと、力説、強調するのもこれがあるためである。

また先般特にテープレコーダーに『積極性と人生』という題で吹込んで、縁のある希望者に頒布したのも、積極的精神態度の必須性を人々の常識として知っていてもらいたいためである。

ところが極めて稀ではあるが、数多くの会員の中には、これを単なる理想論か、もしくは仮定的な推論のように軽率に判断する人がいる。

それが特に、むしろ人生の苦や楽の経験に乏しい知識階級に存在することは、誠に残念至極である。

また中には積極ということに対して、正しい解釈をもっていない人もいる。

つまり、ガムシャラに強がることを積極的だと思っている人もいる。

これほど危険な大間違いはない。

万一そういうものを積極と解釈したら、乱暴と勇気とをはき違えるよりも、もっとはなはだしい誤解である。

積極ということには、絶対に犯すことのできない四つの条件がある。

すなわち、尊さ、強さ、正しさ、清らかさ、という四大要件である。

そして、この聖なる心の態度に現実に到達するように、天風教義はその実際方法=How to doに常に絶えることなく全力を注いでいる。

したがって、真剣にそして熱心に聴講している人々は、理解して得たことを直ちに確実に実行しておられると信じるが、しかしまた万一それがまだなお信念化していない人がいるならば、かつてこの「志るべ」誌上で、特に安武副会長が積極性に対する真相を懇切丁寧に詳しく述べているから、それをよく熟読されよと心より勧める。

そうすれば、どんな人でも熟読すれば必ずやその不変の真理を徹底させることができると信ずる。

そして、精神態度が完全に積極化されれば、だれもが望む成功ということが、何事においても可能なことで、あえて至難なことではないということをも自然と了解されてくる。

その上、今日までの数十年の間に、数多くの先輩会員が、天風教義の実践によって充分にその精神態度を積極化し、抜群の存在感を示して人生の成功を得ているという貴重な事実を実際にしばしば見れば、わざわざ昔の手本や遠くに例を求めなくとも、ごく身近に学べるということが、即座に信念されると思う。

ただしくれぐれも注意すべきは、これまたいつも折りあるごとに説いているとおり、「尊さに慣れて小成に安んずるなかれ(註・教えの尊さに慣れてしまって、少しできたことで満足することのないように)」である。

要は、「日々に新たにして、日々に新たなるべし(註・毎日新しい日を迎えるのだから、今日という日を新鮮な気持ちで大切に過ごせ)」という心持を常に持つことである。

西洋の箴言にもFamiliarity breeds contempt.(註・慣れてくると侮りが生まれる)というのがある。まことに心すべきこととしてしっかり受け止めて忘れることのないように、と心より申し上げ、よりいっそう積極的であれと熱奨する。

「志るべ」昭和四十一年五月、七十九号「新箴言十九」現代語表記・編集部編

人生に活きる際 気どったりぶったりせぬ様

心かけると ドレダケ心に余裕が出来るか分らない

新箴言註釈十八 現代語表記版

禅の言葉に、無礙自在というのがある。これは心に何ら執着のないときの心の力が、心の融通性を百パーセント発揮させて、その可能率を向上させるという真理を説き明かしたものであると考える。

これは理屈でなく、心に何らの執着もない場合は、言い換えると心が何ものにも何事にもとらわれていないときには、これを形容すれば、すべてが滞りなく円滑に、自由自在に、臨機応変の極みに達するものであるという事は、我々の人生で経験する事実がしばしばこれを証明している。

反対に、心に何かの執着、すなわちとらわれがあると、心の力はたちまち拘束されて、その力の発揮できる可能率が著しく低下する。

要するに、この実際の事情を考察すると、人生に活きる際、気どったり、ぶったりすることが、どれだけ無駄な損失を自己の人生に招くかわからないということも、明白に理解されるはずである。

ところが、この明白な道理が歴然として存在しているにもかかわらず、世の人の多くは、やたらに、気どったり、ぶったりすることを、さながら習慣のように行っている。

しかも、それが自分を偉く見せようとか、あるいは安っぽく見られたくないとか、または強いように見せようとか、馬鹿にされたくないとか等々、それがもう既に価値のない執着、すなわちとらわれになっているということに気づかずに、盛んに気どったり、ぶったりということに、苦心するというよりは寧ろ腐心するといってよいのが実状である。そしてその結果、前述した通り、知らずしらずの間に、心の力を著しく低下させている。

要約すれば、そうした行為は、とりもなおさず、精神生命の消耗率を異常に促進させるからである。

多くいうまでもなく、精神生命の消耗率を高めると、どんなに恐るべき損失が人生にふりかかるかということは、我ら心身統一という宇宙真理に則して、人生を貴重に、自己管理を合理的に行っている天風会員は、すでに熟知しているところであるが、何と世の多くの人は、事実においてこの重大な事情を、正しく自覚していないという残念な実際の傾向が著しく見られるのである。

というのは、結局はその種の人々は、生命の生存と神経系統というものとの密接な関係に、余りにも無知か、もしくは無頓着のために他ならないと思う。

詳しく言えば、会員諸君のよく知っておられるように、神経系統というものは、人間のいのちを活かす生活機能の中で一番大切なもの、言い換えれば、神経系統の生活機能のおかげで、我らの生命はこうして活きながらえていられるのであるが、やたら気どったり、ぶったりしている人は、もちろん自分では、結果的にそういうよくない事実を招くことに気づかないで、いや、気づかないというよりも無知であるがゆえに、したがって考えることなしにと言ってよいほど無頓着で、やたらと価値の無い無駄な精神の消耗を実際に行っているのである。

そして、そういう種類の人は、おしなべて人生を神経過敏な状態で生活している。

要約すると、そういう神経過敏な状態で生活をするのは、直接の原因は気が弱くなっているからなので、誤った自己防衛のために、しきりと気どったり、ぶったりするのであるといえる。

しかしそれは何の事はない、鉛を金に見せよう、石ころを宝石に見せようとするのと同然で、それは異常な精神消耗の原因となるだけのことでしかない。

第一本当に出来ている人間というものは、決してぶりも気どりもしない、いわゆる天真流露、生まれたままの素直な心がそのまま自然にあらわれるのである。

これは私が日露戦争直後、朝鮮で当時の韓国統監であった伊藤博文さんから直接耳にした話であるが、ある時伊藤さんが、「君は頭山満の薫陶を受けたそうだが、あの人は実に偉い人である。現に自分が私淑している新井石禅師(註・曹洞宗第十一代管長)が、かつて頭山君に相まみえたときの感想として、今までいろいろな人に会ったが、頭山氏のような、どう見ても少しも偉く見えないでしかも本当に偉いと思う人に会ったことがないと、非常に感激していた」と話されたが、まさにたしかに、頭山恩師は、石禅師の言葉のごとく、極めて平凡に見える、少しも偉さを表さないという偉い人であった。いつも同じ状態でいられたのである。要するに恩師の眼中には貴賤貧富の上下も、老幼男女の差別もなく、一切すべてが平等視されていたとしか考えられない。要するに恩師の偉さはあの天真流露、つまり名声にも富にも権勢にも何ものにもとらわれのない高潔な無欲さにあったと思う。そしてそれがいかなる人をも心服させ、さらに婦女子幼児にまでも尊敬され慕われるという、人を引き付ける大きな魅力となっていたのであると信じる。

とにかく、ぶるとか、気どるとかいうのは、簡単に言えば、ニセ物を本物に見せようとするのと同様で、言い換えると虚勢を張っていることなので、それには相当無理な努力から生ずる精神消耗を伴うのが必然である。

結論を言えば、これはまさに、いわゆる執着拘泥の当然の行きつく結果である。

そして結局は、活きるいのちに大きい損害を与えるだけである。

天風教義が、常に心の態度を積極的に堅持せよと説き、更に絶対積極の態度とは、一切に対して不即不離、すなわち、つかず離れずちょうどよい関係を保つことであると言い、これをこそ虚心平気の絶対境地というのであると教えているのも、要は、無礙にして自在なりという、真に余裕綽々たる心をもった真人としての人生に活きる人を多くしたいがためで、また真の人生幸福というものは、そうした人に与えられるものであるという、厳しい宇宙真理を疎かにしないようにするためである。

多くいうまでもなく、我々の人生信条は、どんな場合にも、また現在いかなる境地にあろうとも、常に心を積極的に堅持して、消極的な感情や病いからくる感覚等に惑わされず、更に、外界からの一切の事物や事象にもその心をかき乱させずに平然として、同時に、肉体生命の生存と生活に対しては、厳格に自然法則を尊重して厳守し、すなわちこうして心身統一を完成し、自己の生命の全能力の最善を尽くして、自己に課せられた人生の責務を忠実に実行する真人であることである。

したがって、自分は宇宙真理を知っていて実行する特別な人間だとか、あるいは周りの人より群を抜いたスーパーな存在だとかというように、ことさらにぶること、気どることを絶対に慎まなければならない。

誠に、これぞ我ら統一道という最高の人生真理に順応して、正しい自己管理を実行する真人にとって、一瞬の間といえどもゆるがせにすることの許されない金科玉条である。

よって、あえてここに更にその反省と実行とを厳しく、諸君に熱奨する次第である。

あるがままにわれある世とし活き行かば
悔いも怖れも何ものもなし

「志るべ」昭和四十一年三月、七十八号「新箴言註釈十八」現代語表記・編集部編

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