新箴言註釈二十一 現代語表記版
多くいうまでもなく、人間というものは、男女の別なく、どんな場合にも、その人生に活きる際に、慌ててはいけないのである。
というのは、人生に生じる誤りや過失というものは、その原因が、心が慌てたときに多いからである。慌てるというのは、またの名を周章狼狽(しゅうしょうろうばい)というが、これは、心がその瞬間放心状態に陥(おちい)って、行動と精神とが全く一致しない状態を言うのである。
心がこうした状態に陥ったときというものは、意識がほとんど不完全な状態になっているのである。言い換えると、心があっても無きに等しい状態になるのである。
だから、さまざまな過失や誤りが生ずるのも当然である。
そしてそういう心になると、時には笑えない滑稽(こっけい)ともいうべきミステークさえ行うのである。
例えば、手に持っているのを忘れてその物品を紛失したと早合点して、大騒ぎして探すなどという、常識では到底考えられない珍芸さえ演出するのである。
現に、ある人がタクシーから降りるとき、大切な書類の入った手提げカバンを車の中に忘れて下車したというので、幸いそのタクシーの会社名を記憶していたので、再び他のタクシーで急いでその会社の車庫に乗りつけて、担当事務員に、息せき切って、その書類は命よりも大切なものであるという事情を細々と述べて、ただしその手堤げカバンには、他に類似点のない特徴がある、その手堤げカバンの外側に、大きくZとHというローマ字が白い色で書いてあるからすぐ分かると説明するので、その事務員が怪訝(けげん)な面持ちで、その手堤げカバンというのは、あなたがそこに持っているのと同様の品なんですか? というと、ハッと手にしていた手堤げカバンを見るや、「アッ!! コレダ、コレダ!! でもおかしいなァ? たしかに車の中に忘れたと思ったのに・・・それがどうして今自分の手にあるのかしら?」とさもさも不思議そうに言うので、「あなたが来られたときから、それを持っておられました」と言うと、とても気まり悪げに小首を何度も傾(かし)げながら、「どうもおかしい、不思議だ」と何度もくり返し言いながら、よっぽどバツが悪かったと見えて、ろくに挨拶もしないで、まるで狐につままれたように、どうにも合点が行かないという風にそそくさと後をも見ずに急いで立去ったという話を耳にしたことがあるが、これは本人としてはまさしく何とも訳の分らない不思議を感じたに違いないと思う。何らかの動機で、または思いがけない出来事で慌てふためいて、その結果、意識が不完全な状態になっていたから、何もかもピンボケになっていたであろうからである。
わかりやすくいうと、周章狼狽の結果、そのとき精神が一時的に朦朧(もうろう)状態になって、思慮も分別も無くなっていたからである。
しかし、これは他人の出来事だと軽々に見過ごすべきでない。厳しく自分自身を省みてみるべきである。要するにこういう失態は、平素落ちついた心的状態で生活行動をしていないということが、その主な原因をなしているのである。
すなわち、人間というものは習慣が第二の天性となるものであるから、平素の生活行動が落ちつきのない状態で営まれていると、それが知らずしらずの間に習性化して、日常の人事世事に対してどうしても軽率で分別を欠いた対応をすることになる。
このようなわけで、そういう習性で生活をしている人が、何か急ぐ事や突発的な事などに直面すると、瞬間的にたちまち前述のように意識が不完全状態になってしまって、その行動も束縛されたり、あるいはちぐはぐになったり、全く考えていなかったことをしでかしたり、または思い違いや勘違いをしょっちゅう行うことになる。
つまりその主な原因は、前記の通り、平素の心がけというものが、重大な影響を精神と肉体行動に及ぼすという関連性があるためである。
昔、柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が未だ修行中のとき、沢庵(たくあん)禅師(ぜんじ)に次のような質問をしたことがある。
「一本の剣は、扱いやすし。されど、数本ともなれば如何になすべきや?」と。禅師が答えて言った。「一本を扱う時と同じ心をもって数本もやはり一本一本扱うべし」と。
まことに、これはまさに極めてすぐれた言葉である。
私はかつて精神の研究をしていたとき、聖徳太子という人は手紙を書きつつ、他人と談話もし、また数の計算もするという、さながら八面六臂(はちめんろっぴ)、何人分もの働きをした驚異的な人であったということを書いてある物の本を読んだとき、前記の沢庵禅師と柳生但馬守の兵法問答を思い起して、結局は心の問題で、結論すれば、精神生命が混乱せず一つにまとまって安定しているために相違ない。だから精神のコンセントレーション(統一)さえ確実に出来れば、誰であろうとできることで、それほど至難な事でないと考えた。そこで会員諸君がすでに心身統一法の教義でよく知っている、あの意識明瞭に集中する方法を実行したら、極めて簡単にその目的を達成することができたのである。
ですから諸君が教示されている方法は、そうした実際経験(換言すれば価値高い実際効果を自分の人生のものにしたいという)を一つにまとめて体系化したものなのである。
それゆえに、もちろん諸君は日常、教義の践行にきちんと怠りなく精進されておられると確信するが、尚より一層、弛(たゆ)まず精を出して努められて、常に意識の明瞭さを保つために心の落ち着きを乱さないよう心されるべきである。
ただし前記の真の意味は、肉体行動のスローモーション(鈍重)を意味するものでないことを、くれぐれも注意してほしい。いや、真に俊敏なハヤブサのような軽快さは、まさに沈着なる平常心より発するのである。
すなわちこれを結論的に断定すれば、まさに沈着なる心こそ、明澄な意識を現実化し、明澄なる意識こそは、その行動の是非善悪をきっぱりと判断して、緩急自在にこれを統御するものである。すなわち武道の極意を把握する者や、その他、修練を充分に重ねてその技が神の域に入るような人は、皆この真理に則しているからである。
であるがゆえに、我々はこの真理を深く尊重し心に銘記して、必ず平素の言動をできるだけ落ち着いて行うように心がけよう。
古諺
唯滅動心 不滅照心 但凝空心 不凝住心
「志るべ」昭和四十一年十一月、八十一号「新箴言二十一」現代語表記・編集部編
