中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

安定打坐法は正当なる思慮と断定とを生み出す

絶対的密法であるから其心して践行に努力すべし

新箴言註釈九 現代語表記版

我らの天風会が、的確かつ急速に心身の改造を現実化するため、我々が人生教義とする心身統一法の要点を、極めて短期間で会得させることを目的として、毎年夏期に本部及び各地において必ず開催する特別夏期修練会の中心的行修科目として、参加者一同に実践させている安定打坐法(別名天風式坐禅法)が、この箴言で表するとおり、正しい思慮と判断とを生み出す絶対的な密法であることは、一度でも修練会に参加した会員は皆一様に、極めて現実的にしかも簡単にその真髄を修得されて、充分にその真価を認識され、修練会で修得された各種の貴重で価値高い効果を得られる方法の中でも、真理瞑想で味わえる真理への悟りと、この安定打坐法の実際的効果が、特に飛びぬけて際立っていると心の底から礼讃されるのは、毎回修練会の閉会の際の言い合わせたような感謝の言葉でもって感得される尊い事実である。

そしてこの理由は当然、安定打坐法という密法が、即座に妄想念を制御して鎮め、たちどころに心鏡を払拭することによって、世の中の多くの人が容易にはできないと思い込んでいる無念無想、すなわち最高の心境であるSamadhi(サマディ・三昧境)に、極めて簡単容易に達入することができるからである。

換言すれば、我々の心境が無念無想という最高の心境に達入すると、宇宙創造の根本要素と人間の生命とが融合一体化するからで、これを更に哲学的に表現すれば、神人冥合の現実化の現れとして、神=大自然のもつ叡智が無条件にその心の中に流入するからである。すなわち宇宙に遍満存在する目に見えない、しかも絶対的に貴重な実在と、完全に心が合一状態になるがためである。(この事に関するもっと学術的な説明は、修練会に参加した人々に配布した『安定打坐考抄』という天風の著書を、もう一度熟読して思い出すがよい)

ところが、安定打坐密法が顕著な現実的効果のある事を修練会で知り得た人の中で、修練会が終わった後も、修練会期間に実践した時のような情熱を燃やして、日常これを実行して人生に非常に大きな効果と幸福を実際に享受している人ももちろん多数おられるが、ときおり、これを心ならずも怠るともなく怠る人がいるのを、わずかな数であるが見聞することがある。

天風が新箴言の第九項にこの箴言を作ったのも、まさにそうした残念な人が時々いるからに他ならない。

要するに、その種の人々は、宝の山に入りながら何も手に入れずに帰る人と同様だ、といってよいと思う。

ですから、万一この記述を読んで、ハッと自己の心に強い反省を感じられたなら、その瞬間から初心の当初に還ったつもりになって、改めて情熱をかきたてて実践に努力されよであります。

現に往年、禅家の名僧で生き仏とまでいわれた一代の高僧である石川素童師が、東郷元帥や杉浦重剛先輩等と共々、初期の修練会に参加され、この密法を践行された際、感慨深くいわれた言葉を特に諸君の行修に対する貴重な参考として書き添えることとする。

禅師はこういわれたのである。
「こんなに訳なく核心を掴むことの出来る近道のあることも知らず、なんとなんと、長い長い間、深山幽谷の中や険しい山坂を苦しい思いをして歩いていたのと同様の苦行で行修し、さてさて一心を把握するのは至難なことよと、つくづく座禅行の難しさを痛感していたものであった。『どの道を行くも一つの花野かな』(註・どの宗旨で往生しても、行く道はみなひとつ)ではあるが、しかしこの度こうして真髄を授かったことは、なんともいえない仏恩でした。しかしこの密法は、一般の苦行僧には簡単に授けるべきでないと思うのは、こんなに安易な方法で簡単に核心を把握させると、仏の教えの真髄を往々にしてないがしろにする者が出来るおそれがある故云々」と。

たしかに禅師のこの言葉は、それが僧門の人であろうと、普通の人間であろうと、まことに貴重な反省を与えられる戒めの言葉であると思う。要は天風が常々口ぐせのように言っている、lightly come, lightly go(得やすければ失いやすし)ということを厳しく戒めた一大偈辞だからである。

多くいうまでもなく、反省は価値ある更生への動機となる。

しかるに、厳そかに内省検討してみよう!!

今自分は、日々の人生生活の際、しばしば与えられるかもしれない「接心」(無念無想への一貫道程、一心)への貴重な機会を、安定打坐の実践を疎かにすることによって、惜しくも逃していないか、それが余りにも安易な方法であるだけに・・・。

そして万一そうであったならば もっともっと活きている瞬間瞬間を重大に考えて、常にもっと活きがいのある人生を創ることに心を真剣にふり向けることに心から努力しようと、厳かに反省せよである。古歌に、
「今いまと、今という間に今ぞなく、今という間に今ぞ過ぎ行く」
というのがある。

まことに謙虚に心がけるべき事である。


昭和三十九年五月「志るべ」六十九号所収「新箴言註釈九」現代語表記・編集部編

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