新箴言註釈十八 現代語表記版
禅の言葉に、無礙自在というのがある。これは心に何ら執着のないときの心の力が、心の融通性を百パーセント発揮させて、その可能率を向上させるという真理を説き明かしたものであると考える。
これは理屈でなく、心に何らの執着もない場合は、言い換えると心が何ものにも何事にもとらわれていないときには、これを形容すれば、すべてが滞りなく円滑に、自由自在に、臨機応変の極みに達するものであるという事は、我々の人生で経験する事実がしばしばこれを証明している。
反対に、心に何かの執着、すなわちとらわれがあると、心の力はたちまち拘束されて、その力の発揮できる可能率が著しく低下する。
要するに、この実際の事情を考察すると、人生に活きる際、気どったり、ぶったりすることが、どれだけ無駄な損失を自己の人生に招くかわからないということも、明白に理解されるはずである。
ところが、この明白な道理が歴然として存在しているにもかかわらず、世の人の多くは、やたらに、気どったり、ぶったりすることを、さながら習慣のように行っている。
しかも、それが自分を偉く見せようとか、あるいは安っぽく見られたくないとか、または強いように見せようとか、馬鹿にされたくないとか等々、それがもう既に価値のない執着、すなわちとらわれになっているということに気づかずに、盛んに気どったり、ぶったりということに、苦心するというよりは寧ろ腐心するといってよいのが実状である。そしてその結果、前述した通り、知らずしらずの間に、心の力を著しく低下させている。
要約すれば、そうした行為は、とりもなおさず、精神生命の消耗率を異常に促進させるからである。
多くいうまでもなく、精神生命の消耗率を高めると、どんなに恐るべき損失が人生にふりかかるかということは、我ら心身統一という宇宙真理に則して、人生を貴重に、自己管理を合理的に行っている天風会員は、すでに熟知しているところであるが、何と世の多くの人は、事実においてこの重大な事情を、正しく自覚していないという残念な実際の傾向が著しく見られるのである。
というのは、結局はその種の人々は、生命の生存と神経系統というものとの密接な関係に、余りにも無知か、もしくは無頓着のために他ならないと思う。
詳しく言えば、会員諸君のよく知っておられるように、神経系統というものは、人間のいのちを活かす生活機能の中で一番大切なもの、言い換えれば、神経系統の生活機能のおかげで、我らの生命はこうして活きながらえていられるのであるが、やたら気どったり、ぶったりしている人は、もちろん自分では、結果的にそういうよくない事実を招くことに気づかないで、いや、気づかないというよりも無知であるがゆえに、したがって考えることなしにと言ってよいほど無頓着で、やたらと価値の無い無駄な精神の消耗を実際に行っているのである。
そして、そういう種類の人は、おしなべて人生を神経過敏な状態で生活している。
要約すると、そういう神経過敏な状態で生活をするのは、直接の原因は気が弱くなっているからなので、誤った自己防衛のために、しきりと気どったり、ぶったりするのであるといえる。
しかしそれは何の事はない、鉛を金に見せよう、石ころを宝石に見せようとするのと同然で、それは異常な精神消耗の原因となるだけのことでしかない。
第一本当に出来ている人間というものは、決してぶりも気どりもしない、いわゆる天真流露、生まれたままの素直な心がそのまま自然にあらわれるのである。
これは私が日露戦争直後、朝鮮で当時の韓国統監であった伊藤博文さんから直接耳にした話であるが、ある時伊藤さんが、「君は頭山満の薫陶を受けたそうだが、あの人は実に偉い人である。現に自分が私淑している新井石禅師(註・曹洞宗第十一代管長)が、かつて頭山君に相まみえたときの感想として、今までいろいろな人に会ったが、頭山氏のような、どう見ても少しも偉く見えないでしかも本当に偉いと思う人に会ったことがないと、非常に感激していた」と話されたが、まさにたしかに、頭山恩師は、石禅師の言葉のごとく、極めて平凡に見える、少しも偉さを表さないという偉い人であった。いつも同じ状態でいられたのである。要するに恩師の眼中には貴賤貧富の上下も、老幼男女の差別もなく、一切すべてが平等視されていたとしか考えられない。要するに恩師の偉さはあの天真流露、つまり名声にも富にも権勢にも何ものにもとらわれのない高潔な無欲さにあったと思う。そしてそれがいかなる人をも心服させ、さらに婦女子幼児にまでも尊敬され慕われるという、人を引き付ける大きな魅力となっていたのであると信じる。
とにかく、ぶるとか、気どるとかいうのは、簡単に言えば、ニセ物を本物に見せようとするのと同様で、言い換えると虚勢を張っていることなので、それには相当無理な努力から生ずる精神消耗を伴うのが必然である。
結論を言えば、これはまさに、いわゆる執着拘泥の当然の行きつく結果である。
そして結局は、活きるいのちに大きい損害を与えるだけである。
天風教義が、常に心の態度を積極的に堅持せよと説き、更に絶対積極の態度とは、一切に対して不即不離、すなわち、つかず離れずちょうどよい関係を保つことであると言い、これをこそ虚心平気の絶対境地というのであると教えているのも、要は、無礙にして自在なりという、真に余裕綽々たる心をもった真人としての人生に活きる人を多くしたいがためで、また真の人生幸福というものは、そうした人に与えられるものであるという、厳しい宇宙真理を疎かにしないようにするためである。
多くいうまでもなく、我々の人生信条は、どんな場合にも、また現在いかなる境地にあろうとも、常に心を積極的に堅持して、消極的な感情や病いからくる感覚等に惑わされず、更に、外界からの一切の事物や事象にもその心をかき乱させずに平然として、同時に、肉体生命の生存と生活に対しては、厳格に自然法則を尊重して厳守し、すなわちこうして心身統一を完成し、自己の生命の全能力の最善を尽くして、自己に課せられた人生の責務を忠実に実行する真人であることである。
したがって、自分は宇宙真理を知っていて実行する特別な人間だとか、あるいは周りの人より群を抜いたスーパーな存在だとかというように、ことさらにぶること、気どることを絶対に慎まなければならない。
誠に、これぞ我ら統一道という最高の人生真理に順応して、正しい自己管理を実行する真人にとって、一瞬の間といえどもゆるがせにすることの許されない金科玉条である。
よって、あえてここに更にその反省と実行とを厳しく、諸君に熱奨する次第である。
あるがままにわれある世とし活き行かば
悔いも怖れも何ものもなし
「志るべ」昭和四十一年三月、七十八号「新箴言註釈十八」現代語表記・編集部編
