中村天風財団(天風会)

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今月の天風箴言

人生は儘ならぬ世界と正念すれば 不自由や

不満というものを 少しも苦悶で感じなくなる

新箴言註釈二十二 現代語表記版

およそ人間の苦労というものを子細に検討すると、それは大抵自分の思うこと、考えること、とりわけ欲求することが、自分の思うようにならない場合の心のもつれから生じる心理現象である。

しかし、考えてみよう!

お互い人間が、もしもこの世が自分の思い通りになる世界だとしたら、一体どうであろうか? ということを・・・

平素人生というものを深く省みたことのない人は、もしそうなったら、さぞや人生というものはなんと幸福だろう!! と思われるかもしれない。

けれど・・・それが果たして幸福なものだろうか。

私は敢えていう。それは決して幸福なものではあり得ないと・・・。

多くいうまでもなく、一切の物事の判断は、理論的な推定よりも、一番確実な「論より証拠」に依るべきである。

聖哲の言葉にも、

「事実は恒に無言の雄弁を以て、最後の立証者として、厳然としてその偉力を発揮する!!」

というのがあるが、全くその通りで、広いこの世の中には、思うこと願うことが満ち足りていて、いわゆる幸福だと思えるような人もいないことはない。

しかし、その人々は、客観的に考えられるほど、果たして絶大な幸福感を日々心に感じて愉しい生活を送っているでしょうか? 否である!

というのは・・・

その人々が、その現在に対して限りなく感謝満足して、その心の中に何らの要望も欲求も持たないのなら、それはたしかに幸福であろう・・・が、少しでも現在の状態に満足を感じないで、新しい要望や欲求が心の中に生ずるとしたら、どうでしょう?

英国の諺に

「金持ちほど欲が深い」というのがある。

この諺は、分かり易くこれらの事情を言い当てたものであると思う。

というのも、人間の心の中に生ずる欲望という心理作用は、金持ちであろうとなかろうと、常に次から次へと新しいことをあれこれ考えて止むところがないものである。そしてその上に欲求心というものは、満たされても満たされても止まるところなく、際限なく起きるものなのである。

昔の道歌に

「おもう事一つかなえばまた二つ 三つ四つ五つ 六つかし(難し)の世や」というのがあるが、この歌こそ、あますところなく人間の欲望に対する心理現象を徹底的に批判したものといえる。

だから、しかもその欲望するものが仮に思いのままに与えられても、欲望心の発動は、断然、その時その場にストップしていないのである。すなわち絶え間なく連続する。

そして、その欲望が満たされようと満たされまいと、いずれにしても、この心理現象の連鎖的な反応というもので、絶えず形の変わった苦しみというものが、次から次へと心の中に発生して、結局心の平安が乱される。

しかも、こういう状態というものは、人間の精神態度が更改されない限り、言い換えれば心の持ち方が切り変えられない限りは、いかなる時代が来ようと、またいかなる身分や境遇になろうとも、いつまでたっても手を変え品を変え、人間を苦労させるのである。

英国の諺に

"It always has been and it always will be"(註・これまでそうだったことは、将来にわたっていつもそうである)というのがあるが、確かにこの言葉は、人間の精神態度そのものが更改されない場合の人生に対する現実的批判に当てはまるものだと思う。

しかしいずれにせよ、人生はこのように常に心の中に何かしら気持ちが晴れないものをもって生きていたのでは、どんな地位や栄誉を勝ち得ても、またどんなに富を獲得しても、ほんとうの生きがいのある価値高い人生は味わえない。

生きがいのない無価値な人生に生きたのでは、人生を全く無意味に終ってしまう。

無意味な人生とは酔生夢死、すなわち為すところもなく虚しく一生を終わってしまうことである。考えるべしである!!

今更いうまでもなく、人生はただ一回である。

である以上、何としても生きがいのある価値高い人生に生きなければならない。

しかも生きがいのある価値高い人生に生きるには、必ず何をおいても、心の平安を確保することである。

そして、心の平安を確保するには、常日頃注意深く天風教義が強く提唱する積極的精神を、現実化するよう養い育てることである。

ところが一般世間の人々は、心の平安を確保するのに、常にその条件を外に求めるために、いつも失敗の苦汁を舐めさせられている。

すなわち、心の平安を確保する条件は、外にあるのではなく自分の内にあるのである。

易しくいえば、心ひとつの置きどころという事実こそ、その内因として重視すべき先決的条件なのである。

であるから、その内因を確実なものにするためには、先ず第一に、前掲の箴言の通りに、人生は儘ならないものというのが、犯すことのできない人の世の常であると正しく自覚することである。

そうすれば、この尊い自覚が直ちに心の本来の正しい姿と相呼応して、これまでしきりに不自由や不満という心理作用のために苦悶させられた悪現象が、自然と心の中から雲や霧が消えるようにあとかたもなく消え失せ、万が一自分の心の欲求するものが満たされないときでも、少しも心を苦しめず、ただ現在あるそのもので満足するという階級の高い心の状態になることができる。

そして、いつも颯爽として、欲望に燃える炎の地獄に心が苦しめられなくなる。

要約すれば、こうして初めて不滅照心(註・永遠の真理に照応した心で生きること)の真人としての真の本領が発揮され、期せずして本当の幸福感に包まれた人生に、毎日愉々快々に生きることができるのである。

すなわちこれが、この箴言の根本なのである。

昭和四十二年一月「志るべ」八十二号所収「新箴言註釈二十二」現代語表記・編集部編

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